もう自分は死ぬまでオシャレな香りのするシャンプーを使う日はこない。
そう思うと、途端に悲しくなる。
というのも、ついに育毛シャンプーを使うようになった。
これから減っていくしかない毛根を維持させるシャンプー。
つまり、使い始めた以上、やめられないのだ。これは現代における麻薬の一種である。
これまで薄く弱くなっていっている頭髪から目を背け続けてきた。母方の祖父も父方の祖父も禿げていた。もちろん父も。遺伝という揺るぎない証拠によって、禿げるという運命は決定的な宿命に昇華する。
ただ、父においては科学の進歩と自身の努力によって、薄毛闘争において毛根を取り戻した。
宿命だから仕方ないと諦め、現実から目を逸らし続けてきた。かつ、約一年にわたるルワンダでの劣悪な洗髪環境により、それが加速したという言い訳も手にした。
だから、もう禿げるのは仕方ない。流れに身をまかせよう。
そうしてぼくは抜けていく髪の毛たちをせっせとクイックルワイパーで集め、機械的に接していた。
そんな日常に転機が訪れた。
それは大学時代の友達とサウナへ行ったときだった。
例の如く三セット完了させ、温泉に浸かっていた。
すると、「あれ? 禿げた?」と不意を食らった。ショックだとか、イラっとしたとか、そんな感情ではない。驚きというか、目を覚まされられたというか。
鏡で自分の頭皮を見つめる時は、たしかに十年前よりは薄くなっているけど、まだ大丈夫なラインだろうとたかを括っていた。
しかし、他人から客観的に見られると、禿げているらしいのだ。
ハッとした。ああ、やっぱり自分は禿げてるんだ。ようやく現実を受け止めて、前へ進むことができた。
こんなことをあの偉大なる映画『THE FIRST SLAM DUNK』と比べてはいけない。
でも、あの感覚なんだと思う。りょーちんの母が息子の死を受け止め、今まで隠していた写真を飾った、あの感覚なんだと思う。ぼくが禿げを受け止め、育毛シャンプーを手にしたのは。
そんなこんなで、育毛シャンプーを使うようになった。
臭いとかじゃないが、男のシャンプーの匂いがする。もうあの女性が使うようなオシャレで華やかなシャンプーを使えないと思うと、哀しくなる。ああ、もうあの時は帰ってこないのだと。
これが大人になるということなのか。
中学生の頃、大人に憧れた。大人って一人暮らしができていいなと。大人って好きなものを好きなだけ買えていいなと。大人ってエッチなことができていいなと。
早く大人になりたいと心底願っていた。
それから十数年が経ち、あまり実感がないまま大人になっていた。
ただ、日常の中にふと大人になったなと思う瞬間がある。
ケーキ屋さんで好きなケーキを一つ選ぶのでなく、食べたいものを片っ端から五、六個注文して、みんなで食べますみたいな顔して、ひとりで全て食べる時、大人になったなと嬉しくなる。
そして、育毛シャンプーで頭髪を洗い、ドライヤーをしていると臭いとかじゃないけど香るおやじ臭。ああ、大人になったんだなあと哀愁を感じる。
ああ、オシャレなシャンプーが使いたい。
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