汗をかかないと、書けない。
汗で書くくらいの気概がないと、書けない。
インプットしていれば、書けるというのは半分正しくて、半分誤りである。
たしかにインプットしていないと書けないし、していないよりしていた方がいいことに間違いはない。
ただ、本質的には書けない。
言い換えると、自分自身から文章が紡ぎ出されることはない。
言葉というのは、心が揺れ動くときに生まれる。
そのゆらぎに言葉を与えることで、文章が生まれる。つまり、書くことができる。
昨年、日本で最初の緊急事態宣言が出されたとき、家に1ヶ月以上も引きこもっていた。
そして今年、ルワンダでロックダウンがあり、家に1ヶ月以上も引きこもっていた。
どちらの期間も、他のどんな期間よりもインプットができた。たくさんの本を読んだ。
でも、書けない。全くかけないのだ。
インプット出来ていないときよりも、手が動かず苦しい。
家にいる95%の時間は何も書けないのに。
週に1回だけ1時間、近所のスーパーへ外出する5%の時間には、文章が浮かんでくるのだ。
新しい土地に訪れたり新しく人に会ったりと、文字通り身体的に汗をかかないと書けない。
そして、仕事などで歓喜したり落ち込んだりして、精神的に汗をかかないと書けない。
とくに、この精神的にかく汗が重要なのである。
もちろん、家から一歩もでなくても、映画や本を通して、心を動かすことはできる。
しかし、これはどこまでいっても受動的である。あくまで設計された中でであり、本当の意味において汗はかいていない。
要するに、能動的に心を動かすことが大切なのだ。
そのためには、行動するしかない。
その過程で、喜怒哀楽を味わう。この喜怒哀楽すべてが大事である。
喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりした分だけ書ける。
マイナスの感情は辛いものだし、できることなら避けたい。
けれど、こういう時のほうが筆が走る。言葉あふれてくる。
毎日、スラスラとかんたんに文章を綴れることなんてない。
あいにく、自分はそんな才能を持ち合わせていない。
でも、自分に才能もセンスもないことは知っている。
だから、身体を動かすし、たくさん汗をかくしかないのだ。
汗をかくほど必死に生きていないと、ぼくは書けない。
だから怠けようとする自分にムチを打つ。
「汗で書け」と。
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