歪な世界を愛でるように缶コーヒーのすする人を大人と呼ぶのかもしれない

 

ぼくたちは知らぬまに世界が公正であるかのように生きている。

 

そんな人間の思い込みを、メルビン・J・ラーナーという人が「世界公正仮説」と唱えた。

この公正世界では、すべての正義は報われ、すべての罪は最終的に罰せられる、と考える。

 

ルフィは海賊王になるだろうし、ロケット団は今日も星になるだろう。

反対に、火影にならないナルトは嫌だし、黒い影の犯人が捕まらないコナンも嫌だ。

そもそもファンタジーに、公正じゃない世界なんて求めていない。

 

現実世界でメディアに取り上げられる実業家もスポーツ選手も、苦労や努力が報われいる。とてつもなく苦労したけど、今は幸せにやってますという物語だ。

その人物の影にある幾千もの敗者の報われなかった物語に目は向けられない。圧倒的に多いのはこちらの方なのに。

 

つまり、ぼくたちが目にする世界は公正である。

努力すれば信じ続ければ、必ず報われることが約束された公正な世界だ。

 

だから、ぼくらは無意識のうちに、自分たちの生きるこの世界も公正だと思っている。

公正であるないの議論を挟む余地がないほど当たり前になっている。気づきもしない。

 

かくいうぼくも、世界公正仮説の熱気的な信者だった。

高校受験に成功したのは、とにかく時間を大量に注いで勉強したからだった。

 

そうか、大量に時間を注ぎ努力すれば、報われるのか。

正確に言えば、高校受験を通して、努力すれば報われるという当たり前の事実を確かめただけだった。そこに驚きはなく、当たり前だよなと。

なぜなら、この世界は公正だからだ。

 

そして、大学受験も同じ方程式で成功した。

とにかく大量の時間を捧げて努力すれば必ず報われる。

世界は公正である。

 

あとは就活を成功させれば、人生というゲームに勝つことになる。

怖いものはない。なぜなら大学生のぼくは知っていたから、努力が必ず報われることを。

 

大学3年の春から就活を始めるという出足の速さをみせた。同級生たちより半年以上も早く就活を始めた。企業研究をしまくりインターンシップにも行きまくった。

ここまで時間と労力を割いている学生はいないと、誰よりもリクルートスーツを着こなしたぼくは勝ち誇った顔で東京を歩いた。

 

しかし、結果は惨敗。

 

同級生たちが次々に内定をもらっていく中、取り残されていく。最後のひとりになった。

大学4年の冬まで続けて、出た内定は1つだった。100社以上の会社にエントリーシートを送っての1社である。

 

努力は必ず報われるという世界線で生きてきたぼくは、目の前の現実を受け入れてられなかった。

昼間から泣いた。カーテンを閉め切った部屋で、家族にバレないように声を殺して泣いた。

それから数年経って、ようやく世界が公正でないことを知った。

 

アフリカでの戦いは、負け続ける日々である。

しかし、もう部屋にこもって毛布にくるまって泣くことはない。それは、世界が必ずしも公正でないことを知っているからだ。

 

だからといって、努力することや信じることに意味がないということではない。

 

大前提として、努力や信念があることが、世界に挑むためのパスポートである。その上で、自分の投下した時間と労力が公正に評価されるかは、分からないということだ。

信じ続けた者が救われる物語があれば、どれだけ信じても裏切られる物語だってある。

 

にもかかわらず、ぼくたちは自分だけは、報われる救われるはずだと思い込んでいる。

でも、そんなおめでたい人間が大好きだ。愛おしく思う。

 

この世界が公正じゃないことを知っているのに、せずにはいられない努力があるし、信じていたいことがあるのだ。

投下した時間や労力に対して、正しい結果が出なくても動かずにいられない衝動がある。

 

公正な世界の世界線を生きれる人間は確かに多くはないかもしれない。

それでも、ぼくたちは今日も新商品の企画を練るし、明日も正義が勝つことを信じる。

 

この公正でも平等でもない、不公正で不平等極まりなく、理不尽で歪み散らかした世界を愛している人を、大人と呼ぶのかもしれない。

 

朝の駅のホームで缶コーヒーをすする人は、世界は公正だと信じているし、世界が不公正であることも知っている。

 

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