生産性追求の果てに待っていた絶望

 

生産性を追求していた。

 

人生は成長が全てであり、いかに命の時間を成長、つまり自己投資に使えるかが最優先事項だと思っていた。

 

無駄な時間を削りに削った。

洗濯や掃除などの家事、料理は最小の時間で終わるように設計した。家事に使う時間は、週に合計1時間以内。買い物も基本的にAmazonで済ませる。

日常をシンプルに設計した。食事も毎食毎日同じものを食べる。洋服は1種類しか持ってない。テレビはもちろんない。SNSもほとんどみない。スマホは通知を常に切っている。アプリも全て一画面に収まる。

 

とことんまで時間を減らしてきた。

昨年までは、一つのスマホゲームだけはしていた。けれど、このゲーム内でも生産性を求め、いかに短い時間で先へ進めるかと向き合っていた。なかなか辞めたくても辞めれないでいたが、途端に馬鹿馬鹿しくなり、辞めた。

 

そして、今に至る。

人生を運営するために必要な時間を最小限にすることに成功した。その結果、多大なる余暇時間が生まれた。そう、人生は成長であり、そのために存在している。望んでいた自己投資の大量時間。

 

しかし、それが身を結ぶことがなかった。
それは己の怠惰によるものなのか。志の陳腐化なのか。手に入れた余暇時間は苦しみの時間へと変化した。

人生の楽しみが一つも無くなった。昨年までかろうじてスマホゲームで2週間ごとに新キャラが出るのは楽しみのひとつであった。けど、今は何もない。何かを楽しみに生きることがなくなった。

 

ただただ生きている。

志はある、ビジョンはある、理想はある。そのために邁進できる資本は用意した。

けれども、投資活動は始まらない。消費も行われない。いや、消費は行えないが正しい。だって、投資するために、消費時間を切り詰めて用意した時間なのだから。おいそれと再び消費に使えるはずがない。雁字搦めなのだ。

 

昔はよかった。

丸一日ゲームをしていた。徹夜してまでマンガを読んでいた。今もそれは実現可能である。むしろ、金のない学生時代よりも。

でも、自分のプライドなのか何なのか。実現不可能にしている。舞台は用意したのに、何もしないくせに。

それは立派な理想があり、そこへ行きたいから。昔に戻ったら、もう一度舞台を用意することは出来ない気がするから。そんな狭間にハマって、どちらにも動けなくなっているのだ。

 

昔に戻った方がどんなに楽なことか。

仕事は仕事として我慢する。そして、余暇時間はゲームしたりマンガを読んだりで埋め尽くす。仕事の意味や人生の意味について考えなくて済む。その方がよっぽど幸せだった。

 

でも、もうそうではいられなくなってしまった。

たとえ昔に戻ろうとして、ゲーム三昧な日々を送っても、もう幸福感には包まれないだろう。自己嫌悪に陥るだけだろう。もうそういう世界線でしか生きれない。

 

つまり、自分の世界をぶち壊してくれるほどの事件が起こらない限りは、ここから抜け出せないのだ。

もしくは、もうこの世界を受け入れ、どうにかやり過ごすしかない。

今はそのやり過ごすことすら放棄していた。自分の理想に繋がらないこと、自己投資になり得ないこと、つまり意味のないことの排除は、人生から楽しみや希望を奪っていた。そのことが、生の苦しさに繋がっていた。

 

ここまで趣味的な何かが、人生を生きるに値するものに変えてくれるという論調で進めてきた。

それとは別にパートナー的な何かが、人生を生きるに値するものに変えてくれるという論も正しい。

パートナーや孤独というテーマは、この議題に深く関係していることだが、話が長くなるため、一旦脇に置いておく。

 

とはいえ、今の自分を一つ肯定することもできる。その趣味的な何かがゲームやマンガといった誰かに与えられたものの消費である場合、一時的に熱狂し人生が充実する。

しかし、その後には何も残らないことを知っている。どうすれば魔王を倒せるのかを習得できるかもしれないが、それはゲームの中だけで、現実では何の意味もない。現実ではただ何十時間も人生の時間を減らしただけである。その時間にできたであろう投資は莫大で、その機会損失は大きい。そのことを知っている。

 

どちらが良い悪いということではない。価値観の話だ。いちばん中途半端なポジションで、何もせずただ苦しいと叫ぶしかできない自分が最も間抜けで惨めである。

 

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