パンツを投げたくなる日に生きる勇気をくれるもの、それがサッカーである。

 

サッカーが大好きだ。

ぼくには魂を捧げているクラブチームがある。

 

ふだん人間は、平和を愛し、感情をひた隠して生きている。

ところが、人間には動物として本来備わっている闘争本能がある。その動物的本能が顕現される代理戦争が、サッカーである。

 

本能の代理戦争は、人によって違う。

ある人の場合は、会社内の出世競争であったり、おしゃれインスタグラムの投稿であったり、アーティストのライブであったりするわけだ。

人は誰かと争わずにいられないのだ。

 

ぼくは試合を観戦していると、騒ぎ狂ってしまう。

この世の生き物のすべてが寝静まり静寂に包まれた真夜中の住宅街であろうと関係ない。

もう自分の意思では止まらない、身体が勝手に動き出すのだ。

 

愛するクラブが得点を決めれば、リビングをドタバタと全力で駆け回り、誰もいないキッチンに向かって、飛び跳ねガッツポーズを決める。

 

そして、二階の寝室で気持ちがよく眠る両親を叩きおこしては、怒られる。

まあ、どんなに注意されようと関係ない、というより仕方がない。

 

銭湯でコーヒー牛乳を飲まない人間がいないよう、愛するクラブチームの歓喜の瞬間にリビングを駆け回らない人間はいないのだ。

むしろ、そんな生理現象を止めようとすることの方がおかしい。

 

体の内側で爆発する感情を、全身を使って逃がしてあげないと、文字通り体が爆発してしまう。

バンっと大きな破裂音を立てて、リビングを血と臓器で染め上げるより、冷蔵庫に向かってガッツポーズしている方が良いに決まっている。

 

本場のブリティッシュたちはもっとすごいくらいだ。

新型コロナウイルスの猛威によって、現地のサポーターたちも自宅での観戦を余儀なくされた。

ふだんはスタジアムで騒ぎ倒すそんな彼らの自宅での様子が、SNS上に出回った。

 

老若男女問わず、例外なくみなリビングを跳ね回る。

興奮のあまりローテーブルを叩き割るやつもいれば、妻を吹き飛ばすやつもいる。

 

蓄積されたフラストレーションが一気に解放されたあのときの快感を抑え込められる人間なんて、この世にいないのだ。

 

サッカーを観ていると、つくづく思うことがある。

 

世の中は表裏一体である。

歓喜の瞬間があるということは、絶望の瞬間もある。

これが、この世界の不変の真理である。

 

自分のチームが勝っていれば気分は最高だが、負けていれば最悪以外の何者でもない。

とくに胸糞悪い負け方をしたときなんて、何も手につかない。

 

ある時、あんまりにもむしゃくしゃして履いていたパンツを職場のゴミ箱に殴り捨ててノーパンで昼前に帰宅したという奇行に走ったことは、内緒にしておこう。

 

ほんとうにパンツを投げ捨てたいのは、選手や監督たちのはず。

それでも1週間後には、また試合がやってくる。

 

下を向いている暇なんてない。

どんなに悔しくても、投げ出したくなっても、顔を上げて次の試合に臨まなければならない。

 

そんなサッカーに人生を感じずにはいられない。

 

どんなに苦しくても、どんなに辛くても、生きていく。

前を向いて、生きていくしかない。

苦しくてもいい、辛くてもいい、それでも生きていく。

 

力の差を見せつけられ、コテンパンにされることもある。

ときには、不運や理不尽な負けもある。

 

受け入れ難い現実でも、たとえすぐに受け入れられなくても、前を向いて生きていくしかない。

どんなに打ちひしがれようと、生きていくしかない。

 

勝つこともあれば、負けることもある。

楽しいことも嬉しいこともあれば、時に、苦しいことも悲しいこともある。

 

それでも、ぼくたちは生きていく。それしかないんだ。

だから、面白いし、だから、生きるに値する。

 

そんなメッセージを毎週届けてくれるのが、サッカーなのだ。

 

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