外国人に対してお金をくれというのは、この国の文化なのだ。
だから何の問題もないと、誇らしげにルワンダの友人は語ってくれた。
ルワンダ人がぼくたち外国人を見ると「お金をくれ」と言うのは、リスペクトの証らしい。悪いことではなく、むしろ褒めらているようなものらしいのだ。
ルワンダはみなお金を持っていない。
一方で、ヨーロッパやアジアといった他の大陸からやって来た人は、お金を持っている。
だから、尊敬の意を込めて、お金をくれと言うのだそうだ。
何の躊躇もなく「お金をくれ」と言うキラキラした目の子どもたちを見ると、悪意がないのは明らかだし、相手への敬意があることも頷ける。
突如、街中に現れたくまモンに写真をせがむ日本の子どもたちと変わらないピュアさが、そこにはある。
彼らなりのコミュニケーションなのだと思う。
初めは「お金くれ」だったが、一度ペンあげると「ペンをくれ」に変わった。今に至っては、みんなでシェアしてねとオレンジを渡したことから「シェア、シェア」が合言葉になっている。
子どもたちの言葉は記号でしかなく、尊敬や友好の証なのだと言うのも納得できる。
とはいえ、出会い頭に「お金をくれ」と投げかけられるのは良い気はしない。
それが、自分の親世代の大人から真剣な目で言われるお金をくれなら尚更である。
その眼差しは、くまモンへの向けられる慈しみに溢れたものでなく、正月に会う名前も知らない親戚のおじさんに向けられものなのだ。
表情や言葉から出る必死さに、嫌な気持ちなる。
なぜだろう? 大人が発する「お金をくれ」も子どもが発する「お金をくれ」も同じである。
言葉の奥に隠れた精神性が不快感を作り出す。
子どもでも本気で「お金をくれ」と言ってくる子には、どうしても敵意を抱いてしまう。
人間という動物として、テイカーには反射的に身構えてしまうだろう。
はなから貰うことしか考えていない人と付き合いと思う人間はいないはずである。
ぼくは聖人ではない。
ギバーでありたいと常々思ってはいるが、くれくれというテイカーにギブするお人好しではない。
さらにタチが悪いのは、ギバーのふりをしたテイカーだ。稀にギバーの仮面を被った純度100%のテイカーがいる。
ルワンダで暮らし始めたとき、とっても良くしてくれた青年がいた。
印刷屋で働く彼は、頼んでもないのに懇切丁寧に毎日現地語を教えてくれた。SNSのメッセージを使って授業をしてくれた。
そのメッセージをつくるのに、2、3時間はかかると思う。
さすがに悪いからやらなくていいと断っても、君の助けになりたいとレッスンは続いた。なんていい人なんだ、その優しさに胸を打たれた。
2週間くらいすると、何かこっちにもレッスンをしてよと言うようになった。
「ごめんよ、ぼくが君にしてあげられることはないんだ。だから、もう現地語の授業はしなくていいよ」と彼に伝え、ぼくは申し訳なさでいっぱいになった。
ペースは落ちたののレッスンは続いた。その度に心からの感謝と、授業への断りを入れた。
ところが、1ヶ月くらいして態度が急変する。
いろいろ教えてやったんだから、今度はお前が俺に与えろと、何度も何度も催促してくるようになった。
「おお神よ。親愛なる兄弟よ。君は何もくれないのか?」で始まるSMSの長文は今見てもゾッとする。
好意ではなく初めから見返りを得るための行動だったの?
そう分かってしまったときの興醒めはものすごい。帰国するときに、彼が欲しいと言っていたパソコンを本気で譲ろうと考えていたのに……。
正体がごりごりのテイカーだった彼は、印刷屋を辞めてどこかへ行ってしまった。
テイカーは成功しない。反対にギバーは成功する。
これはルワンダに限った話ではない。日本においても言える。世界のどこでもある程度通用する真理に近いことなのだと思う。
日本で、テイカーやマッチャー、ギバーを見極めるのは難しい。
けれど、いい意味でもわるい意味でもオープンなルワンダでは、この区別がつきやすい。
とくに相手が外国人だと、その態度は如実に出るのだろう。
テイカーにとって、外国人は歩くATMに見えて仕方ないのだろう。どうにかして、この中からお金を取り出せないかを考える。
一方、ギバーにとって、外国人は夏休みに一人で電車を乗り継いで遊びに来た孫にでも見えるのだろうか。惜しみなく、助けてくれる。見返りなんて微塵も求めない。
どちらに与えたいかという問いの答えは明白である。こうして、ギバーはプラスのループに乗っていく。
世界のどこにいても、ギバーとテイカーの法則は一定正しいと言える。
改めて、自分はギブ&ギブのギバーでありたいと強く思った。
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