命に終わりがあることを知る

 

命に終わりがあることを知る。

 

なぜなら、命の有限性を自覚していないと、今日を大切に生きられないからである。

 

今日を大切に生きられない人に、夢や目標を叶えられるだろうか。

時間を大切にできない人が、後悔のない人生を送れるだろうか。

 

畢竟、人生は今日の積み重ねである。

どれだけ今日という日を善く生きれたかの積み上げである。

 

スティーブ・ジョブズ、ホリエモンさんといった一流の人たちが口を揃えて、「今を生きろ」と言うのは偶然ではない。

 

それは、命の有限性を知っているからである。

過去はやり直せないこと、未来はいつ途絶えてもおかしくないことを彼らは知っている。

 

過去に戻ることも、未来へ飛ぶこともできない以上、ぼくだちに残された道は今日という日をどれだけ必死に生きるかである。

 

その毎日の積み重ねが、後悔のない人生になる。ないしは幸せな人生になる。

そのためには、命の有限性を自覚する必要があるのだ。

 

人間は忘れる生きものだ。

すべての人間は死ぬ。こんな当たり前のことさえ、ぼくたち忘れる。

 

永遠に生きれるかのように、丸一日ゲームをする。

永遠に生きれるかのように、両親と口をきかない。

永遠に生きれるかのように、好きな子に想いを伝えないでいる。

 

ぼくたちは、いつまでも生きていられるという幻想は抱いている。

しかし、そんなものは幻想だ。

 

産声を上げた瞬間から、着実に死へ近づいている。

さらに、その死はいつ訪れるかわからない。

 

テレビやスマホの画面に流れる不運な事故や凄惨な事件を見て、死を感じる。

そして、自分にとって大切な人が亡くなるとき、初めて身近にも死があることを知る。

 

ぼくが大切な人を初めて失ったのは19歳のときだった。大好きだった祖父が亡くなった。

母から祖父が癌で入院していることを聞かされた。その声を響きは、もう長くないことを悟らせた。

祖父の入院する病院にお見舞いにいくと、衰弱しきった祖父がいた。なんと声をかけたらいいのか分からず、言葉が胸でつっかえた。

自分勝手な妄想をした。誰も死ななければいいのにと。

 

でも、人間は死ぬのだ。

この世に唯一、平等なことがあるとしたら、それは全ての人間は死ぬということだ。

 

誰しも頭では分かっている。

人間が死ぬこと、それがいつ来るか分からないこと、時間は有限であること。ぜんぶ知っている。そんなことは痛いほどに知っている。

でも、心からそのことを理解して、生きている人は多くない。

 

大切な人の死といった強烈に死を実感する経験があっても、次は自分の番だなんて思うことはない。若いうちはとくにそうである。

 

しかし、若いうちにこそ、命の有限性を自覚した方がいいのだ。

時間と命が同義であることを認識できたとき、人生は変わり始める。

 

無限に時間があると思い込んでい学生時代。

暇だ、なにか面白いことはないかな、やることがないと、だらだらしていた自分にいいたい。

なんで命を無駄しているんだよ。ぜったい後悔するぞ。惰性で生きるなよ、もっと必死に生きろよ。と、あの頃の自分を罵りたい。

 

もし、明日死ぬとしたら、ただ暇つぶしだけのゲームに必死になるだろうか。

もし、明日死ぬとしたら、両親にあんな酷い言葉を吐き捨てるだろうか。

もし、明日死ぬとしたら、好きな人に想いを伝えずにいるだろうか。

 

時間の使い方を見直すはずである。

つまり、命の使い方が変わるはずである。

 

死を強烈に意識することで、生のスイッチが入るのだ。

 

とはいえ、明日死ぬことを本気で意識することは難しい。

できたとして、毎日怯えて生きるのは現実的じゃない。それに楽しくない。

 

それでも知っていたほしいことがある。

毎日おもいだしてほしいことがある。

 

あなたが生きている今日は、明日を夢みていた人が生きたかった今日であることを。

命は有限であるということを。

 

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