「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか」
スティーブ・ジョブズの名言である。
ぼくはこの言葉が好きだ。
「今日を人生最後の日」だと思って生きろということである。
自己啓発書で、この言葉が紹介されるたび、翌朝から問いかける。
「今日を人生最後の日だとしたら、本当にやりたいことなのか」
しかし、三日と続かない。
人間は想像が得意だ。
好きな子と両想いになることも、有名な作家になることも、想像できる。
そんなとき、楽しい気分になる。感情は確かに動いている。
だが、「人生最後の日」だけは、持てる想像力を総動員しても、描くのは容易ではない。
「死」というものを経験したことが、ないからだろうか。
たしかにそうかもしれない。人を好きになる経験をしているからこそ、想像でも口元を緩ませることができるのだろう。
残念ながら、死を経験することはできない。
だからか、よく死は睡眠に喩えられる。
なんとなくだが理解はできる。でも、「人生最後の日」を想像する材料にはならない。
つまり、人生最後の日だと思える日は生涯来ることはなく、いつか最後の日が来るのである。
ここから導き出される解は、「今日を全力で生きろ」ということである。
なるほど、これならできそうだ。
加えて、自己啓発書を読むたびに、時間の大切さを教えられる。
時間=命だと。これは理解もできるし、実感もあるし、なにより深く共感できる。
命を大切に生きたいと固い誓いを結ぶ。
しかし、現実は甘くない。
その誓いは三日で破られるのだ。
このとき、世界の秘密を知ることになる。
現実は甘くない代わりに、なぜか自分は甘いのだ。それはもう黒蜜きな粉ソフトクリームの底に溜まった黄褐色の液体のように。
平気な顔で2時間昼寝をしたり、何食わぬ顔で動画を一日中見ている。
誓いは簡単に破られ、命の時間を浪費するのだ。
次のステージになったとき、前のステージを振り返る。
高校生になった時、「もっとうまくサッカーができた」と中学時代を振り返り。
大学生になった時、「もっとうまくサッカーができた」と高校時代を振り返り。
社会人になった時、「もっと時間を有効活用できた」と大学時代を振り返る。
回顧するたび、「あの頃もっとできた」と悔いる。それは、少なからず、成長していると捉えることもできる。
会社をやめて今、会社員時代を振り返っても、悔いる余地がない。
それは、成長していないからなのか。それとも、毎日を全力で生きられていたからなのか。後者だと信じたい。
もし、三年後の自分が、今の自分を振り返ったときにどう思うだろうか。
毎日を全力生きていたと、信じてくれるだろうか。
未来の自分を後悔させたくない。
「何をやってたんだ自分」と思われないような日々を過ごしたい。
そう思って、手を動かしている。
動かなきゃよかったと、後悔するかもしれない。
別のことしていればよかったと、後悔するかもしれない。
それでも、時間を、命を無駄にしたと後悔するよりマシなはずだ。
甘い沼に引き摺り込まれそうになったら、こう問いかけるようにしている。
「もし三年後の自分が今の自分を見たら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか」
という結論に落ち着いた。
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