金子みすゞの詩を初めて聞いたのは、小学校の頃だった。
なんとなくステキだなと思った記憶がある。
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやく走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
いま聞いてみると、昔もよりも響く。
なぜだろう、その理由を思案してみた。
たぶん「みんなちがって、みんないい」と思いたいのだ。
憧れのあの人のようになりたかった。誰かとは違う存在になりたかった。
でも、なれなかった。
それでも、いい。そんな自分でいいのだと、そう思いたいのだ。
ほんとうにそれでいいのだと思う。
そもそも他人と比べる必要なんかない。
しかし、あえて今の自分と置き換えて、比較して突き詰めてみた。
ぼくがSNSを投稿しても、
反応はまったくないが、
影響力のあるインフルエンサーはぼくのように、
心をゆるせる友達は持っていない(ぜったいに持っている)
ぼくがお金をはたいても
お家は買えなけれど、
買える富豪はぼくのように、
お金よりも大切なものを知らないよ(むしろ、お金も持っているからこそ、本当に大切なことを知っている)
インフルエンサーと、富豪と、それからわたし
みんなちがって、みんないい。
厳しい。これは苦しい。
「みんなちがって、みんないい」なんて、言えなかった。
ぼくには何もなかった。残酷な詩だ。
インフルエンサーも富豪も、自分にないもの全て持っている。
比較してみたら、自分にあるものは何もなかった。比べた時点で、負けは決まっていたのだ。
じゃあ、なぜ琴線に触れたのだろう。救いのない詩が響くはずない。
そう信じて「本当に何もないのか?」「彼らになくて、自分にあるものは何なのか?」往生際悪く足掻いてみた。
問えど問えど、「何もない」という答えが返ってくるだけだった。
ズタボロに引き裂かれながらも、何かあるはずだと質し続けた。
すると、一つだけ確実にあるものを見つけた。
必死に考えてる自分がいた。
これは、何と比較しても「ない」とはならなかった。
自分という存在はぜったいにある。そう確信できたとき、納得した。
存在しているだけで、いいんだ。
自分があるというだけで、素晴らしいんだ。
かなり無理矢理だが、腑に落ちた。
人間社会に置き換えると、一見残酷な詩に見えたが、突き詰めたらポジティブな詩に代わったのだ。
同じようなことを言っていた人がいた気がする。
「我思うに我あり(コギトエルゴスム)」
デカルトだ。
まったく文脈も道筋も違う。
でも、『わたしと小鳥とすずと』に頭を捻ってから、このデカルトの言葉を聞くと、どこかポジティブな響きがある。
存在しているだけでいいんだ。
唯一無二の存在なんだ。
ありのままでいいんだ。
と思えてくる。
仕事で失敗して自己否定しそうになったら、コギトエルゴスム。
恋人を奪われ世界が憎くなったら、コギトエルゴスム。
SNSを見て他人が羨ましくなったら、コギトエルゴスム。
なんだかどうでもよくなって来ませんか?
コギトエルゴスムという呪文さえ唱えていれば、落ち込まない。
存在しているだけでいい。ありのままでいい。
勇気を与えてくれる呪文、コギトエルゴスム。
コギトエルゴスム。
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