「2歳のときに虐殺で両親は殺された」
何気なく2つ年上のルワンダ人の友達が口にした言葉だ。
ルワンダで暮らしていると、つくづく思うことがある。
この平和な時代に、この国で生まれたことは奇跡である。
自分は何もしていない。
ただ、21世紀に日本という国で生まれた、ただそれだけでなのだ。
近年ベストセラーになった『ファクトフルネス』が示す通り、世界はここ数年で確実によくなった。そして、さらに改善しつつある。
しかし、アフリカにはまだまだ学校にいけていない子どもはいるし、今日を食いつなぐことがやっと人なんてごまんといる。
新型コロナウイルスが流行しようもんなら、即座に職を失う。蓄えなどあるわけもなく、たちまち空腹にあえぐことになる。
そして再度、仕事に就くことも極めて困難である。
その中で、職にも食うにも困らない物質的に豊かな国、日本で生まれたことがどれだけ有難いことか、ひしひしと噛み締める毎日である。
ルワンダで生まれた人が不幸で、日本で生まれた人が幸せであるという話ではない。
ただ、日本で生まれたぼくらがどれだけ恵まれているかは、知っておいたほうがいいと思うのだ。
誰かに何かをしてもらったときにだけ感謝をするのでは、圧倒的に足りない。
ただ生きているだけで、既にたくさんもらっている。
ただ生きているだけで、感謝すべき対象がたくさんあるのだ。
水や電気が毎日使えること、穴の空いていない服を着られること、学校に通えること、選ばなければいつでも仕事が見つかること、お腹いっぱいご飯を食べれること、失業保険や生活保護といったセーフティネットがあること。
これらのことは、日本では当たり前で感謝の対象に挙がることは多くない。
けれど、世界基準でみれば、衣食住に困らないことや誰もが不自由なくインフラにアクセスできることは普通ではない。
ひとつ例を挙げてみよう。
たとえば、お米。ぼくたちがお米を口にできるまでに、どれだけ多くの人が関わっているのか想像したことがあるだろうか。
お米の生産者さんはもちろん、彼らの使う機械や肥料だって、そのメーカーの仕事で作られている。
そこから市場や店舗を介して、食卓へと届く。その過程にすら多くの支えがあることは明らかだ。卸業者や販売業者はもちろん、スーパーで購入した10kgのお米を運ぶのに車などの運搬手段がなかったら、家に持ち帰るだけでもどれだけ大変か。想像にやすいはずだ。
さらに、口に運ぶまでを考えると、炊飯器、茶碗、水、電気と誰かの仕事でつくられた恩恵を受けて、初めて食すことができる。
今の自分の身の回りにあるものだけでも、どれだけ感謝の対象になるかわからるはずである。
禅には、知足という言葉がある。
とはいえ、「いまあるもので十分で、それだけでありがたい」と心から感じるのは、正直、簡単ではない。
「昔は」とか、「アフリカの子供たちは」とか、比べられると「たしかにそうなんだろうけど……」と頭では分かる。
だからといって、心の底から「自分は恵まれている」と思うのは難しい。
しかし、心から満ち足りていると感じる方法がある。
自分の外側ではなく、内側に目を向けるのだ。
そもそも外に目を向け、比べるからいけないのだ。比較の中でしか感じることのできない幸せなんかに、価値はない。
朝起きて、ご飯を食べれて、学校に行けて、帰る家がある。友達がいて、家族がいる、何よりも生きている。もうこれだけで十分ではないか。
今、生きることができているだから、足りているはずなのだ。
この知足を実践できるようになると、いくつになっても、どこにいても、幸せでいれる。どんな状況でも、幸せを感じられるようになるのだ。
人生において、本当に必要なものは限られている。
そして、だいたいもうある。しかも、すぐそばに。
加えて、もうひとつ忘れてはならないことがある。
それは、この時代に生きていることである。
この平和な時代に生まれたこと、これも奇跡的なことであり、どれだか有難いことか。
日本が戦争をしていたのも、わずか80年前の話である。
少し前まで、インターネットもなかった。
やはり、この時代に、この国で生まれたことは、奇跡以外の何物でもない。
いま生きていることに感謝する。
本来これだけで、とっても有難いことなのに、忘れてしまう。
改めて、今日という日を生きていることに感謝する。今のこの時代に、日本という国で生まれた奇跡を噛み締めて生きる。
もうこれだけで充分幸せだ。
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