仮装大賞を見る母は、ぼくに人生で大切なことを教えてくれた。
先日、仮装大賞が放送された。
仮装大賞は、40年を超える長寿番組だ。
その日、とつぜん母が「今日は仮装大賞があるの」と嬉しそうに言った。
放送が始まると、駆け足でテレビの真前を陣取った。
仮装大賞はたしかに面白い。
面白いけれど、だいの大人がはしゃいで、テレビ画面にかじりつくほどのものか。
冷やかに眺めていた。
しかし、母の横顔を見た時、すべての合点がいった。
「そうか、別に仮装大賞を見ているわけではないんだな」と。
テレビではなく、その向こう側を見ていた。
母が子どもの頃に祖父母や兄弟と一緒にテレビを囲んでいた思い出を見ていたのだ。
その姿は寂しそうで幸せそうだった。
誰しも場所や音楽が記憶を呼び覚ます経験をしたことがあるはずだ。
「夜中に家を飛び出し友達と眺めたあの朝日」「好きな人に振られた日に聴いたあの曲」
にぶい痛みの中にどこか愛おしさを感じる。
記憶と一緒に感情も閉じ込めらているからだ。
そして、記憶が再生するとき、ぼくたち必ず「だれか」を思い浮かべている。
ぼくはよく一人旅にいく。最近では鳥取にひとりで行った。
もう一度砂丘に訪れれば、以前来たという記憶はたしかに再生される。
でも、あのラクダを見ても、あの潮騒を聞いても、あの乾いた空気を嗅いでも、何も感じない。
そこに感情はなかったからだ。「だれか」を思い浮かべることもない。
きっと、「だれか」と見る色に心を動かすのだろう。
きっと、「だれか」に思いを馳せる音に心を動かすのだろう。
きっと、「だれか」を感じる香りに心を動かすのだろう。
人間、生涯孤独でも生きていくことはできる。
でも、その世界はモノクロだ。
一人では世界をカラフルにできないのだ。
そんなことを、仮装大賞を見る母は教えてくれた。
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