節分とは、邪気を払い無病息災を願う古来から続く有り難い行事だ。
母が豆まきをしよう言うので、数年ぶりに参加するのもいいかなと思っていた。
ところが、払うはずの邪気を生んでしまった。
一階のリビングでテレビを使っていると、テレワークを終えた妹が二階から降りてきた。
テレビを代わってほしいと一言頼めばいいのに、「いつ終わるの?」「早く使いたい」と母に対して駄々をこねるのだ。
そのやり口に大いに腹が立った。プレッシャーに負けて譲るのも癪だが、同じ空間にいるだけでイライラしてくる。
すぐにテレビの電源を消し、自室へと駆け込んだ。
くだらないことで、怒りを発露させてしまった。
気持ちをなだめるために本を手に取った。読書をしていると、いつのまにか憤りは収まっていた。
すると、もう一人の妹が、自分の部屋に豆まきをするようにと、大豆を枡いっぱいに持ってきた。素直に受け取り、窓に向かって豆を投げてみた。「まあ、これでいいか豆まき終了」と枡を置こうとしたときだった。
テレビ事変の妹の部屋が開いてるのが、目に入った。消えかかっていた感情がふつふつと蘇ってきた。
いまぼくの手には、大豆という名の散弾銃がある。
次の瞬間、空の部屋に向かって、その散弾銃を力いっぱい放った。
スッキリしたぼくはリビングに降り、恵方巻きを頬張った。食事が済み、再び自室に戻り本の続きを読んだ。
数時間が経ち、そろそろ寝ようと思い、歯を磨くために部屋を出た。
部屋の外に出て、呆然とした。
目の前に、大豆という名の地雷が敷き詰められていたのだ。
屈辱と憤怒。
「やられた、やりかえす倍石返しだ」と半沢直樹の思想を掲げて、大豆という名の散弾銃を再び手にした。
しかし、突如、我に返った。
だから、戦争はなくならないのだと。
憎しみが憎しみを生む。争いがまた新たな争いを生むのだ。そうやって、憎しみは連鎖していく。
ぼくたちは、どこかでこの連鎖を断ち切らなければならない。
争いに利用された不憫な大豆たちをそっと拾い上げた。
使う人間に悪意があれば、大豆も兵器になってしまうのだ。
豆には何の罪もない。
こうして、節分戦争は終戦の時を迎えた。
ぼくはひとり停戦協定を結んだ。
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