答えがある世界は魅力的だ。
なぜなら、楽だから。
ところが、世界には答えがない。
だから自分自身で、問いを立てて考えなければならない。
それは、物凄くめんどくさい。
自らの答えつくるために、知識や経験を総動員して、どうにか答えをだす。
その答えが正しいのか分からない。間違っていると袋叩きにあうかもしれない。
だから、多くの人が答えだと言うものを、疑わずに信じるほうが圧倒的に楽なのだ。
「何のために勉強するのか」「何のために働くのか」「何のために生きるか」答えのない問いを、徹底的に考えたことがあるだろうか。
ぼくは、いっさい考えたことがなかった。信じていた世界から強制的に弾かれとき、はじめて考えた。
ぼくたちは小学生から高校生まで12年間、答えを覚える訓練をひたすら積んできた。
世界には、覚える答えなんかほんとうは無いのに。
それでも必死に訓練をするにはワケがあった。
答えが用意されていたからだ。
「いい大学に入って、いい会社に入る。そうすれば、幸せな人生が送れる」という魅力的な答えが。
これが、この世界の答えだと信じていた。
自ら問いを立て、答えをつくりだすなんてできるはずがない。
答えを暗記することしかできないからだ。
それに、生まれてからずっと信じてきたものを捨てるのは、容易でない。
中世のヨーロッパは、魅力的な世界だった。
神が存在していたからだ。
神を信じていれば、救われた。教会の言うことに従っていれば、神に取り次いでくれた。
かなり乱暴に言えば、神が規定した世界で従順に生きていれば幸せになれたのだから。
しかし、この神が絶対だった世界に意義を唱えた人がいた。
哲学者だ。
いまこそあなたの人生を哲学するのだ。
答えのある魅力的な世界から、答えのない混沌とした世界に飛び込もう。自分自身で問い直してほしい。
「何のために勉強するのか?」
「何のために働くのか?」
「何のために生きるのか?」
その結果、神を信じたっていい。
面倒でも、怖くても、一度、疑い考えてみてほしい。その思考はぜったいに無駄にならない。
未熟でいいから、不恰好でいいから、いまの自分に出せる最大限の答えを。
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