死の匂いがする瞬間がある。
少し不謹慎かもしれないが、久々に祖母に会うと祖母の背後に「死」が迫っているのが見える。霊感なんて全くない自分に、何かが見えると言いたいわけでない。
けど、そこには確かに、死の空気がある。
その死の空気は、決して後ろ向きなモノではない。
もちろん、祖母には出来るだけ長く生きていてほしい。自分にとっては、もう唯一のおばあちゃんである。妹が産まれる時に、長らく預かってもらったことがある。その時の記憶を思い出すと、身体を巡る血の温度が上がる。大好きな祖母だ。
だけど、理性では生きていることを信じるけど、本能で長くないことを悟ってしまう。
別に今も元気に暮らしているし、ひとりで買い物にも行けるし、ボケてもいない。自分が知っている記憶の中の祖母のままである。
けど、皺だらけなった顔や力のない瞳を見ると、そこに死の匂いを感じてしまう。ぎゅっと胸が締め付けられる。だから、少しでも健やかに長く生きて欲しいと願う。それしかできないし、それで充分なのかもしれない。
やはり、その死の匂いは決してネガティブなものでなく、とってもポジティブな意味なのだ。
今を大切にしろという強いメッセージを運んでくる。だから、できるだけ会うようにしよう、その時間を大切にしようと、思えるのだ。
そして、まだまだ先だと思っていた自分の父からも死の匂いがした。
年末、実家に帰ると、父がいなかった。四、五日だったから、単に仕事が忙しいのだと思っていた。
しかし、年始に長期旅行から実家に帰ると、驚きの事実を知ることになった。なんと入院していたと言うのだ。肝臓を半分摘出したのだと。言葉にしなかったけど、おそらくガンである。
死はそこまで来ていた。ゾッとした。まだまだ一緒にいれるものだと思っていたけど、そうじゃないことを教えてくれた。永遠なんてないこと、日常は突然に終わることを。今は元気でなんともないと言う。それは本当だろう。でも、やはり死はいつ来るか分からない。
自分が死ぬことは怖くない。けど、身近な誰かが死んでしまうことはとてつもなく怖い。
まさか実家で死の匂いを感じるとは思ってもみなかった。その死の匂いは心を抉る感覚がある。反面、建設的な部分もある。今を大切にしろと、両手で頭を押さえつけ力一杯に上下左右と揺さぶってくる。
お盆も年末年始も別に実家に帰らなくていいやと、斜に構えるのはもう辞める。
必ず帰ろう。大切な人たちとの時間を大切にしよう。当たり前だけど、実践するのは難しかった。なんだか照れ臭いから。でも、そんな理由で、後悔したくない。だから、帰れる時は必ず実家に帰ろうと固く決めた。
しかし、ひとつだけ腑に落ちないことがある。
我が両親である。なぜそんな大事なことを、なぜ事後報告にするのだ。以前にも同じようなことがあった。母が入院した。それも、何事もなかったかのように事後報告された。それが優しさなのは分かる。遠く離れてひとりで暮らす息子に余計な心配をかけない配慮なのだろう。
ただ、家族がガンになったと聞いて、心を壊してしまわないほどに強くなったと自負している。もちろん、ショックは受けるだろう。でも、家族なら心配したい。健康を願いたい。神社へ行き手を合わせたいものなのだ。
死はいつ訪れるか分からない。だから、「今を大切に生きる」。
世の中に溢れすぎて、あまりにも陳腐になってしまったこの自己啓発的な言葉の響きが一変した。そんな2023年の始まりだった。
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