歪んだメガネをかけて、自転車で爆走するのは危険だ。
外から見ると明らかにおかしいのに、メガネをかけている本人はなかなか気づかないものである。
ある日、支援先を回るために自転車を漕いでいた。
町外れの村にある、米農家の団体を訪れた。用は済んだにもかかわらず、ひたすらにペダルを回していた。
自暴自棄になっていたからだ。
青年海外協力隊の活動が上手くいっていないから。ロックダウン中で外食ができないから。日本に帰国後の未来が見えないから。
理由はさまざまある。
とにかく、どこか知らないところへ行きたかった。
どうにでもなれと思って、知らない道をぐんぐん進んだ。
もう、このまま世界の果てまで行ってやるつもりで、足を動かし続けた。
すると、そいつは突然あらわれた。
ヤギだ。
ヤギが崖に登っている。
なぜ狭くて危ない険しい崖に登るのだろうか。地上の方が安全だし、草も圧倒的に茂っている。
おそらく、ヤギたちも自暴自棄になっていたいたのだろう。
ヤギは生贄にされてきた。
選ばれた二匹のうち一匹は生贄に、もう一匹はアザゼルの山羊として罪を背負わされた。
くわえて、悪魔や性的快楽の象徴ともされた。
人間のエゴでぞんざいに扱われてきたヤギたちが、不条理な世界に嫌気がさしても不思議ではない。
誰にだって、ぶつけようのない感情の塊がある。言葉にならない善にでも悪にでも変換可能な混沌とした塊だ。
その行き場のないエネルギーを発散したくなるのだ。
人間なら世界の果てまで自転車を漕ぐことだったり、ヤギにとっては険しい崖に登ることだったりするのだろう。
ヤギたちに同情しているうちに、だいぶ遠くまできた。
街の中心部からだいぶ離れているので、外国人がよっぽど珍しいのだろう。
魔王を倒し世界を救った勇者のごとく注目を浴びる。
ガン見されて、無視をするのは何だか居心地が悪い。なので、目が合ったら、必ず挨拶するようにしてた。
ところが、「おはよう」という簡単なルワンダ語が通じない。
いつもなら一発で通じる。なんならルワンダ人から発音を褒められるほどである。
この日は、2度3度「おはよう」と言い、ようやく通じる。
おそらく、ふだん外国人に会うことがなく、外国人がキニアルワンダ語を話せるわけがないと思い込んでいるのだろう。
つまり、固定観念が聞こえなくするのだ。
世界には、固定観念で聞こえなくなっているものや、見えなくなっているものが沢山ある。
ヤギは崖に登るのが趣味らしい。不貞腐れても、やけくそにもなっていなかった。
自分の一時の感情で、ヤギの真意を見えなくしていた。
ぼくが見ていた世界は自分色に補正されていた。
感情の揺れ、固定観念、場の空気、成功体験やトラウマ、信仰や思想、憧れや願望。こういったものが、世界を自動補正してくる。
彼女は俺のことなんてどうでもいいと思っている。大学に行き大企業に勤めなけらばならない。受験勉強のように大量の時間を割けば絶対にうまくいく。家と車を持つことが幸せだ。成功しているあの人に苦しい作業なんてないに違いない。
ほんとうにそうだろうか。
何かが見えなくなっていないだろうか。
加工を外したとき、世界はどう見えるだろうか。
ぼくは世界の果てで出会ったルワンダ人のおかげで、自暴自棄になって見る世界は歪んでいるということに気がついた。
そして、ここから帰るのに2時間はかかることにも気づいた。
もう二度と、世界の果てなんか目指すものかと固く誓った。
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