6月2日
緩やかな下り坂を、勢いよく駆けていく。
70キロを超える巨体を、両足が力強く受け止めながら。
小学生のころの足だったなら、一瞬で砕け散るだろう。ボキンと。
僕の足は太く、勇ましくなった。
本当によく、育ったものだ。
自分で、自分の足に心底、感心する。
母が栄養のあるご飯を、たくさん食べさせてくれたからだろう。
牛や豚、魚、野菜といった生命が、僕に力を与えてくれたからだろう。
自分は食べるだけだ。自分は、この世界に生かしてもらっていると、つくづく思う。
ほんとにありがとう。
感謝のきもちでいっぱいだ。
6月3日
ランニングを初めて、2カ月が経つ。
こんなに走ることが続いたことはない。初めてだ。
サッカー部に所属していた高校生の時でさえ、続かなかったのにだ。これは、目的の違いだと思った。
あの頃の自主的なランニングの目的は、「言い訳づくり」だ。「努力という名の言い訳」だ。
練習もして、帰宅したあとに、走る。これだけ、やっても結果でないのは、もう仕方ない。という言い訳だ。自分に対しても、チームメイトに対しても。
その当時、「試合に出るため」「試合に勝つため」と目的があった。でも、続かなかった。心のどこかで、言い訳をつくりたい自分がいたのだろうか。
もちろん本気でやっていた。
でも、今の自分には「本当に本気だったのか?」そう思えてしまう。本気だったら、続くはずだ。でも、続かなかったのだから。
では、なぜ今は続けられるのか?こんな声がありそうだ。「部活もなくて、自分を追い込んでまで、走る必要がないからじゃないか」
言わせてもらおう。
今も走るのは、キツイ。苦しい。
さらに言えば、高校時代のランニングには、サッカー部という活かせる場所があった。大会で勝ち進むという目標もあった。
しかし、今は、何もない。
社会人のチームに入ってるでもなく、マラソン大会にでる予定があるでもなく、どこにも活かす場所なんてないし、目指しているものもない。
でも、続くのだ。
それは、「走ること」自体が目的になっているからだ。
気持ちいいのだ。
走るのは、気持ちいい。身体はキツイし、心臓も苦しい、でも気持ちいいのだ。心がキレイになる。頭がスッキリする。このために走っている。
瘦せたいとか、体力をつけたいとか、そのために走っていたら、おそらく続いていない。
その積み重ねの先に、目的を達成できるのではなく、走るたびに毎回、目的が果たせるのだ。
だから、続くのだ。「走らなきゃいけない」ではなく、「走りたい」と純粋に思えるのだ。だから、続くのだ。
何かを習慣にしたいと思ったら、その「行動自体を楽しむこと」が大事なんだと、今になって学んだ。
6月5日
毎日走っているわけではない。
走るのは、せいぜい週に3、4回だ。
1回、走りにいくと、2、3つ紀行文が出来上がる。それを、毎日にわけて投稿しているのだ。
何が言いたいかというと、脳が走るのだ。
自分でも止められないくらいに、脳が全力で走り出すのだ。「おれの番だ!誰もジャマするな!」と言わんばかりに、走り出すのだ。
主人の足よりも速く、脳が走り出すのだ。
脳がタイムを測ったら、とんでもない記録が出そうだ。
なぜ、脳が暴走するのか、考えてみた。
おそらく、本当に脳の番なのだ。
今、実家の自分の部屋で、1日の8割は過ごしていると思う。
1日中、部屋には自分だけ。自分だけの時間……。
意外とそうではない。
部屋に自分一人でいても、母や兄弟は何か言っている。本の著者は訴えかけてくる。スマートフォンは世界を繋いでくる。一人の時間なんてないのだ。
ランニングは、本当の意味で一人になれる。常に、自分自身との会話しかない。
もちろん、景色を見て情報は入ってくるが、いつもと同じコースなので、新しい情報はすくないし、裸眼で走るから、世界は常にぼやけている。ゆえに、自分自身との会話に集中できるのだ。
だから、それが嬉しくて、脳が暴走してしまうのだ。それが分かって、少し興奮している。
6月7日
いつものように走っていると、横を路線バスが通り過ぎた。
何を思ったのか「あのバスに勝つぞ」と本気で思った。
しかも、本気で勝てる謎の自信があった。
全速力でバスを追いかける。
10m、20mと、どんどん離されていく。しかし、決してあきらめなかった。
ほら見たことか、バス停だ。この間に、距離をつめ、真後ろにまで迫った。
だが、バス停を離れたバスは、容赦なく走り去っていった。
結果として、僕はバスに勝てなかった。
これは、身体能力がないからじゃない。
バスが時速40kmで走れるからじゃない。
自分にバスに勝つ才能がないからじゃない。
バスと争う知識も経験もないからじゃない。
あきらめたからだ。
僕がバスに勝つことを、あきらめたから負けたのだ。
もし、あきらめなかったら、勝てていた。
本気でそう思える。
気づいたことがある。
夢中になってバスを追いかけていたら、ずいぶん遠くまで来ていた。
知らないうちに、前に進んでいたのだ。
今回のバスがダメでも、また新しいバスを見つけて、走ればいいのだ。
そのバスを追った軌跡は、決してムダにはならないはずだから。
6月10日
今日は、成長を実感した。
これまで、他のランナーを「負けないぞ」と敵として見ていた。見栄を張って、無理して、自分のペースを崩していた。
しかし、今日は他のランナーを見て「自分も頑張るぞ」と好敵手と見なせた。その走る姿に、勇気をもらって、走る力に変えられた。
これは、成長だ。
女性が前に現れた。
今までのペースを大胆に崩し、カッコつけて走った。見栄を張って、無理して、自分のペースを崩した。
これは、衰退だ。
いや、違う。これは、成長だ。
なぜなら、その女性から勇気をもらって、走る力に変えたからだ。タイムは確実に、縮まっている。
これは、成長だ。
今日は、三歩進んで、一歩も下がらなかった。
6月11日
町中を走ると、足止めをくらうことがある。
信号、歩行者、車、いろいろある。足を止められるのは、仕方のないことだ。
タイムの更新を狙っているときは、足を止められないことを願う。だが、そんな時に限って、赤信号に引っかかる。歩行者の後ろを歩くことになる。
正直、その瞬間は、これがなければと思ってしまう。
しかし、次の瞬間には、ワクワクする。ゴールしてタイムを見ることにワクワクするのだ。
なぜなら、そのタイムには伸びしろしかないからだ。
足止めされた分だけ、伸びしろがあるからだ。
たとえ、足止めがあっても、ベストを尽くす。ベストを尽くしたタイムが、足止めされた分だけ、さらに早くなると思うとワクワクする。
障害物バンザイだ。それは、伸びしろだ。
6月14日
悩んだら走る。
心配や不安。心のモヤモヤが増殖しそうになったら、走るようにしている。
なぜなら、走ると「心頭滅却」できるかだ。
心頭滅却とは禅の言葉で、「頭」と「却」には意味はないそうだ。そして、「心」を「滅」するわけではなく、心を整えるということらしい。
まさしく、「心頭滅却」この言葉が、ランニングにはピッタリだと思った。
走っていると、余計なことを考えなくなる。苦しいからそれどころではなくなるのか? なぜだろう?
とりあえず、分かっていることは、心のモヤモヤが晴れることだ。頭も心も、スッキリするのだ。
悩んだら走るのはおススメだ。
まだランニング歴、2カ月のド素人だが。
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