映画、ドラマ、アニメ、本といった作品は、観客、視聴者、読者といった受け取る側との共作である。
作者は、生み出した作品にメッセージを込めている。それを、そのままストレートに受け取る人もいれば、作者が意図していないものを受け取る人もいる。
その解釈は千差万別なのだ。
作者と読者の間に立ち上がるのが、本当の作品である。
つまり、共作しているのである。
たとえば、作者の伝えたいメッセージが「愛の尊さ」だとする。
Aさんは「やっぱり愛は尊い、だから家族を大切にしたいな」と思うかもしれないし、Bさんは「やっぱり愛は尊い、だから動物や植物への愛を忘れないようにしよう」と思うかもしない。
反対に、Cさんは「たしかに愛は尊いけど、同時に儚くもあるよな。だから、愛なんて不確実なものではなくお金を大切にしよう」と受け取る可能性もある。
それは当たり前で、誰が正しいということではない。
作り手は作り手のメガネを通して世界を見ている。その作り手から一つの作品が生まれる。
しかし、受け取る側は、十人いれば、十人とも異なるメガネをかけている。そのメガネを通して見える世界が十通りになるのは自然なことだ。
そして、これは一人の人間にも言える。
10歳のときの自分と、20歳のときの自分が見ている世界は違うはずだ。
同じ人が同じ作品を見ても時間軸がズレれば、受け取るものは変わってくるのだ。
10歳のときに見た『となりのトトロ』の「トトロに会いたい」「どんぐり育てたい」という受け取り方を、君の解釈は間違っていると誰が否定できようか。
これは、『となりのトトロ』と10歳の見手の間において、絶対的に正しい。
20歳のときに見た『となりのトトロ』の「田舎暮らしっていいな」「いいお父さん(草壁タツオ)だな」という受け取り方もまた、『となりのトトロ』と20歳の見手の間において、絶対的に正しい。
『トトロ』はこう解釈すべきだと、相対的に受け取るものものではない。自分の中の絶対でいいのだ。
その作品に触れるときの状況や心理状態、経験や知識の量によって、一つの作品から受け取れるものが変わってくるのだ。
それは、送り手と受け手の共作だからだ。
人によって千差万別であり、タイミングによっても千変万化なのである。
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