ムラホ!!おおいしです!
1994年にルワンダで起きた、ジェノサイドについて解説していきまます!
この第3部では、不安定なまま始まった共和制のルワンダからジェノサイドが起こる直前までを見ていきます。
ルワンダジェノサイド 【第3部】
7章 共和制ルワンダ 〜カイバンダ時代とハビャリマナ時代〜
不安定なまま独立を果たしたルワンダでは、PARMEHUTU(フツの政党)のリーダーであったカイバンダが大統領となり、第一共和制が始まります。
カイバンダ政権下において重要な課題だったのが、ツチ難民および周辺国との関係でした。
1962年以降、UNARの亡命組(武闘派ツチ難民)は、武力攻撃による権力奪還に望みをつなげていました。中でも、1963年12月末の攻撃は、ルワンダ政府を震撼させます。ブルンジにいた武装難民が、ルワンダ南部に侵攻しキガリまで迫りました。
しかし、この攻撃はルワンダ国内のツチの弾圧に繋がり、ツチの政治家たちが裁判もなく処刑されてしまいました。加えて、ルワンダ各地で一般のツチに対する報復も行われ、多くのツチが殺害されました。
この1963年12月末の殺戮では、1万〜2万人が殺害され、1994年のジェノサイドまででは最悪の被害でした。この殺戮で暴力のパターンを確立してしまったとも言えます。それは、ルワンダ国外からの攻撃はルワンダ国内のツチの犠牲を生む、ということでした。
カイバンダは自身の権力を高めるために、様々な行動にでます。
1963年2月に内閣改造を行い、入閣していた2名のUNARのツチ官僚が排除します。その後のカイバンダ政権では、ツチの閣僚が任命されることもありませんでした。
また、フツの政党であったAPROSOMAに対しても圧力がかけられました。例えば、党の創設者でリーダーでもあるギテラは逮捕され、党員はPARMEHUTUへの転向圧力をかけられました。
カイバンダ政権は、ツチ、フツ問わず、政府内外の反対派を沈黙させたのです。
独立後、約1年で、PARMEHUTU以外の政党は弱体化させられ、PARMEHUTU内部の反対派も排除されました。このように、カイバンダ自身およびその支持者に権力が集中したことから、フツの王といわれました。
すなわち、ツチからフツに権力が移ったにもかかわらず、権力の性質そのものは変わらなかったのです。
その他にも、カイバンダは自身と同じ出身の者(中部、南部ギタマラ)を優遇するようになったり、社会や経済の発展が達成されなかったため、フツ大衆の中でも不満が蓄積されていきました。1970年代に入る頃から、求心力を失いつつありました。
そんな中、1972年にブルンジで反乱が起き、20万人のフツが殺害され、多くのフツが難民としてルワンダに流入します。その反動として、ルワンダでもエスニックな緊張が高まり、学校や官民セクターからツチを追放する迫害が起きました。
この混乱に対してカイバンダ政権は、北部出身の政治家たちを交代させ、事態を収拾しようとしました。それに脅威を感じた北部出身の国軍司令官(国防相)のハビャリマナは、1973年にクーデターを起こし成功させます。
ハビャリマナは1975年に、「開発国民革命運動:MRND」を設立します。そして、1978年に新たに制定された憲法は、MRNDによる一党支配を定め、ルワンダ国民はすべてこの党に所属するものとされ、それ以外の政治活動は禁止されました。
つまり、PARMEHUTUからMRNDへと支配する政党は代わったものの、一党支配は継続したのでした。
ハビャリマナ政権は、国民融和を掲げたとされています。しかし、ツチは政治的に排除されており、議員70名のうち2名、閣僚も25〜30名のうち1名と少なく、融和は表面的だったと言われています。
ツチ、フツの人口比率によって、軍や政治、教育における人数を割り当てるクォーター制の導入など差別的な政策もとりました。差別的だったと解釈される一方で、クォーター制をとったことで、一定数はツチが在籍できるため、ツチが社会的に排除されていたとは言えず、民主主義のパワーシェアリングとして認識されていました。
ハビャリマナ政権は援助関係者からの評判がよく、ベルギー、西ドイツ、フランスが援助ドナーの中心として支えていました。また、クォーター制や政策を批判せず、逆にルワンダは成長の指標においてアフリカ諸国の中では優秀であり、モデル国だと見做していました。
国内政治も安定はしたものの、ハビャリマナおよびその周辺に権力が集中する構図は、カイバンダ政権から継続していました。言ってしまえば、この政権は国際社会の援助によって、構造的に「暴力を支援」された体制だったのです。
7章のポイント
- カイバンダ政権もハビャリマナ政権も、大統領およびその周囲に権力が集中する構造だったという点で、独立以前のツチ王政と似通っていた。
- ハビャリマナ政権になると、難民による攻撃も落ち着きを見せ、援助関係者からの評価も高まり、一般大衆の生活も向上しつつあった。
8章 内戦からジェノサイド 〜連立内閣の成立〜
1990年当時のルワンダはハビャリマナが大統領になってから17年が経過し、政党はMRNDのみでした。
この頃のルワンダは、ルワンダ愛国戦線(RPF)との内戦と、国内における民主化要求と複数政党制の導入という国内外での二重の危機に直面していました。
1990年10月1日、RPFがウガンダからルワンダ北部に侵攻し、ルワンダ国軍との間で内戦が始まりました。
(※RPF=ウガンダに逃れたルワンダ難民もしくは、その子弟を中心に構成された集団)
しかし、内戦開始直後にリーダー(ルウィゲマ)が戦闘中に死亡したことで、RPFは大打撃を受け、ただちにウガンダに戻り立て直しを図らざるえなくなりました。さらに、ハビャリマナ大統領は、フランス、ザイール、ベルギーに軍事支援を依頼しており、初期の戦況は国軍が有利でした。
この内戦開始を機に、ハビャリマナ政権は政権反対派の取り締りに乗り出します。取り締まりの対象は、ツチだけでなく、フツの反政権的な人もでした。
内通者として全国各地でツチを中心に1万8000人が逮捕・拘留・拷問されました。ハビャリマナ政権は内戦開始を反政権弾圧および治安対策強化の口実に利用したのです。
反対派の逮捕や抑圧にもかかわらず、政権に対する批判はやむことがありませんでした。このような状況下にあったので、ハビャリマナ大統領は複数政党制の導入を発表します。
これ以降、複数の政党が設立されます。
1991年3月に「共和民主運動:MDR」が設立され、カイバンダ元大統領の出生地である中部ギタマラのフツの支持を受けていました。
1991年4月から5月には「社会民主党:PSD」が設立され、南部ブタレを拠点とする穏健派知識層の政党でした。
都市部のビジネス層から支持されている「自由党:PL」、教会からも「キリスト教民主党:PDC」が設立されました。
野党に対抗するために、ハビャリマナのMRNDも名称に「民主主義」を加えて、「開発・民主主義国民革命運動:MRNDD」に改称しました。
1991年に6月に新憲法が公布され、1991年7月にこれらの新政党が正式に登録されます。政治変動の兆しを感じた野党は、野党を含む内閣の組閣を要求します。
1992年1月の抗議デモを通して、妥協したハビャリマナ大統領は1992年4月に、連立内閣の20あるポストのうち11を野党が占めることになり、連立内閣は成立しました。
この間にPRFはアメリカから帰国したカガメ主導のもと、兵力を増強し、攻勢に転じるようになっていました。そして、連立内閣はRPFとの和平という難題に取り組むことになります。
8章のポイント
- ハビャリマナ政権は反対派を抑圧をしたが、批判が止むことなく複数政党制を導入した。
- RPF(ルワンダ愛国戦線)は内戦開始直後は不利な状況だったが、1991年に入るとカガメのもと、攻勢に転じた。
9章 内戦からジェノサイド 〜急進派の台頭〜
1992年5月から6月にかけて和平交渉が行われ、1992年7月12日に停戦協定が署名され、国軍とRPFの戦闘はいったん止むことになりました。
次にパワーシェアリングについて、1992年9月から93年1月まで協議が行われ、移行政府設立を伴う協定書が署名されました。
移行政府では、各党にポストが割り当てられた結果、与党のMRNDDは反数に満たないポストしか得れなくなりました。(MRNDDとRPFが5つずつ、MDRは4つ、PDSとPLは3つずつ、PDCは1つ)
この和平協定に対する反発が沸き起こります。
まず、連立内閣組閣直前の1992年3月に強硬派フツの野党政党「共和国防衛同盟:CDR」が設立されていたのですが、和平交渉のパワーシェアリングから排除されており、代表団を強く批判します。
また、与党のMRNDDでもインテラハムウェという青年組織が設立され、交渉に反対を示します。
1993年1月19日、CDRとMRNDDは合同で、和平交渉の合意に反対する暴力的なデモを行いました。
このような急進派による和平交渉への反対および軍の強化と並行し、クボホザと呼ばれる政治的な暴力も起こるようになります。
(※クボホザ=暴力で脅して特定の政党に加盟させたり、ライバル政党の支持者を襲撃して政党支持をやめさせたりと、犯罪の増加と複数政党制をリンクさせることで野党・複数政党への支持を減らすという目的で行われた)
また、将来の大規模な殺戮もこの頃から計画が始まったと言われており、権力中枢にツチ殺戮を計画する「ゼロネットワーク」というグループが存在しているとされました。
1992年3月にブゲセラで300名以上のツチ殺害されており、これにも「ゼロネットワーク」が関与したと言われています。
ツチへの暴力や将来の大規模殺戮計画の危険性に対して、1993年2月8日にRPFは停戦協定を破り大規模攻勢に出ます。
しかし、RPFは2月20日には自主的に戦闘を中止しました。今回の攻撃がツチ襲撃に対する報復であった他に、ルワンダ国軍とPRFの統合に関する和平協定で優位に立つ狙いがあったからです。
ところが、この攻撃は逆効果をもたらしました。急進派は、和平交渉においてRPFを優位にすることは、政府のRPFへの妥協でありフツの利益に対する裏切りだとして、弱腰の交渉姿勢を批判しました。
また、野党はこれまでRPFを好意的に評価してきたのですが、2月の攻撃やRPFによる民間人殺害のニュースによって、印象が悪くなってしまいました。野党の中でも、RPFとの交渉支持派とRPF危険視派に分裂していくことになります。
ブルンディの情勢もルワンダに大きな影響を与えました。ブルンディではルワンダとは異なり独立後もツチが権力を握っていましたが、1993年7月にフツとして初めて、ンダダエが大統領に就任します。
しかし、同年10月にツチの軍人によって大統領が暗殺されたことで、ツチの軍によるフツの殺害、フツによるツチ住民への報復が起こり、5万人以上死亡し、国内は混乱に陥りました。その結果、ブルンディから30万人ものフツ難民がルワンダに流入することになりました。
このブルンディの政変は、与野党を超えてフツの急進派を結集させることになりました。
1993年11月、MDR、PL、PSD内部の強硬派が、CDRおよびMRNDDと合流し、フツの団結を謳う「フツパワー」が結成されました。彼らはツチだけでなく、RPF支持者やフツ反対派もリスト化し、殺害の準備を進めました。
1994年2月10日にRPFを含む新内閣が組閣される予定でしたが、強硬派による協定支持者や穏健派を襲撃し妨害する行為が増加しました。さらに、強硬派による大規模殺害計画やツチを大量に殺すのを容易にするためにツチ住民のリストが作成されていることが明らかになりました。
治安の悪化を受け、国際社会は協定の履行を促しますが、急進派の勢いは止りませんでした。そして、協定履行が進まない状況にイラだっていたRPFのカガメは、停戦を破って、実力行使で権力を奪取することも示唆し始めました。
こうしてルワンダ国内は急進派が牛耳る不安定な空間となっていったのです。
9章のポイント
- 1992年後半以降、穏健派主導による和平協定の進展に反発する形で、国内の急進派が影響を持ち、与野党の垣根を越えて結集し始めた。
- 協定の履行を恐れた急進派のリーダーたちは、より急進的かつ暴力的になっていった。
- RPFの2月攻勢やブルンディの大統領暗殺も、国内の急進化を助長し、穏健派の力を削ぐ結果となった。
次の第4部では、ジェノサイドが発生してからその後のルワンダまでを解説していきます。これが最後のパートになります!
最後まで読んできいただき、誠にありがとうございます!!
コメントを残す