ムラホ!!おおいしです!
1994年にルワンダで起きた、ジェノサイドについて解説していきまます!
この第1部では、ルワンダの誕生から様々な政党が結成され国内の緊張が高まっていくまでを一気に見ていきます。
ルワンダジェノサイド 【第1部】
1章 ニギニャ王国の誕生 〜エスニシティの形成〜
15世紀ごろ、のちにルワンダとなるニギニャ王国が中央ルワンダに誕生します。
今は使われなくなっていますが、ルワンダには「ツチ」「フツ」「トワ」の3つの民族がありました。
農業や牧畜など異なる活動に従事していた人々を区別するために、狩猟民を「ツチ」、農民を「フツ」、森林民を「トワ」と呼んでいました。
彼らは、等しくルワンダ人であり、エスニックな対立は存在していませんでした。
ツチ族の王がヒエラルキーの頂点におり、その支配によって平和でした。
王はルワンダそのもので、神から派遣された神聖な存在だと見なされていました。王は、人ではなくなるため、エスニシティの違いも超越すると考えられていました。
このニギニャ王国は、しだいに権力や領土を拡大していきす。王国が領土を拡大していくのに伴って、ツチとフツが区別されるようになっていきました。
ニギニャ王国は周辺国を侵略する中で、征服後に中央の王宮から各地にチーフといわれる者を派遣し、支配をしていきました。
その結果として、王宮から派遣された者を「ツチ」、地元の者を「フツ」と指すようになっていきました。
ニギニャ王国が権力を確立していく過程で、土地の保有制度が変わり、国が管理するようになります。また、強制労働も導入され、ツチとフツの関係は不平等になっていきました。
このような中央集権化および領土拡大の中で、中央から派遣されたツチのチーフと区別する形で、各地域においてフツ意識が生まれ、エスニシティが形成されていきました。
1章のポイント
- 「ツチ」「フツ」「トワ」は異なる活動に従事する人を区別するもので、等しくルワンダ人であり、エスニックな対立はなく平和に暮らしていた。
- 15世期に誕生したニギニャ王国の中央集権化や領土拡大の中で、エスニシティが形成されていった。
- ツチ・フツというエスニシティは、太古の昔から普遍的に存在していたものでも、ヨーロッパ人によって創造されたものでもなかった。
2章 植民地支配 〜エスニシティの固定化〜
19世紀後半になると、アフリカ大陸の植民地化が進んでいきます。ルワンダもその中の一国でした。
1897年にニギニャ王国は、ドイツ領になることを受け入れます。
この時にドイツは「ハム仮説」を持ち込み、ツチ支配に正統性を与えられます。そして、ドイツはニギニャ王国の領土拡大と権力伸長に寄与しました。
(※ハム仮説=19世紀ヨーロッパ大陸で信じられていた科学的な人種主義。ツチを白人に近いハム系、フツをバントゥー系黒人と認識し、ハム系であるツチはフツより優れているとした)
しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ルワンダ周辺での戦闘でドイツ軍はベルギー軍に破れ、1916年にドイツのルワンダ支配は終わります。
ドイツによる支配は短い間でしたが、ハム仮説を持ち込んだという点で、ドイツがルワンダに与えた影響は大きいものでした。
その後、ベルギーがルワンダを受け継ぎます。
ベルギーはドイツと同様に間接統治を採用し、王政を維持します。また、ルワンダを「近代化」しようと、改革を始めていきます。
まず、チーフの改革を行いました。もともとチーフは、牛・牧草、人・軍、土地を担当する3つに分けられ、全国に配置されていました。その中で土地のチーフは、フツが担当していました。
しかし、今まで3種類あったチーフを1つに統合し、ポストを大幅に減らしました。その際に、ハム仮説から「フツ」のチーフを激減させました。
他にも、徴税を課されたチーフたちは、自身の利益を確保するために人々を搾取しました。
結果として、ベルギーの諸改革は、ルワンダをより抑圧的なものへと変えてしまいました。
それまで集団意識を抱いていなかった人々がチーフによる抑圧を通して、フツとしての連帯感を抱くようになりました。さらには、1930年代前半に導入されたアイデンティティカードによって、ツチとフツの違いはより硬直的かつ差別的になっていきます。
そして、20世紀中盤までには国家権力は強固になり、エスニシティは固定化された重要な要素になっていきました。
しかし、ツチとフツの関係や国家権力の影響力は全国的に均質的なものではなく、地方ごとの差異がありました。また、特にツチのリーダーの間では、権力争いも存在していました。
(当時のエスニシティの割合は、ツチが16%強、フツが83%弱)
2章のポイント
- 19世紀の終わりにドイツの植民地となり、ハム仮説が持ち込まれた。
- ベルギーの支配はエスニックな集団を創造したというより、既存のエスニックな差異がより差別的で固定的なものに変えてしまった。
- ツチとフツの関係や国家権力は全国で均質的なものではなく差異があった。さらには、ツチのリーダー間での権力争いもあった。
3章 革命前夜 〜政治改革気運の高まり〜
第二次世界大戦後、宗主国は信託統治領の政治的・経済的・社会的状況を改善するように言われていました。
もちろん、ベルギーも例外でなく、ルワンダの民主化を国連から要望されていました。
(※宗主国=内政や外交など支配・管理する権限を持った国)
国連からの圧力によって、ベルギーはしぶしぶ改革を始めます。
ベルギーは、評議会を設置する政令を公布します。しかし、これはルワンダ人を政治に組み込むことで、「民主化」を進めているという体面を示すためのものでした。そのため政治に影響を与えることが出来なかったのです。
これによって、ツチのリーダーたちとベルギーとの間に緊張が漂い始め、ツチの伝統的なリーダーたちは、「白人と黒人の差別を解消するため」にベルギーからの権力移譲を求めます。
これに対して、ツチの革新的なリーダーたちは、伝統的なリーダーを批判し、ツチとフツの間の不平を解消すべきだと主張します。
この評議会の設立はツチのリーダーだけでなく、少数ながら存在したフツのエリートたちも落胆させました。それは議席の95.5%が、ツチで占められていたからです。
これに失意を味わったフツのエリートたちは政治活動を開始します。
1957年6月にカイバンダは、フツの社会経済的進歩、教育推進、政治参加を目標にした「フツ社会運動党:MSM」を設立します。
同年11月にギテラが、伝統的制度の民主化と「カースト」に基づく特権の廃止および差別の廃止を求めて、「大衆社会上昇協会:APROSOMA」を設立しました。
ここまで見てきたように1950年代後半のルワンダでは、ツチ内部の意見の相違が明らかでした。逆に、ツチの革新的知識人およびフツのエリートは共通した改革を提案していました。
重要なのが、フツのエリートたちが望んでいたのは革命や暴力行為の促進ではなく、単に政治改革だったことなのです。
国連はベルギーに独立に向けて方策を実施するようにと、たびたび勧告を出していました。
ルワンダと同様にベルギーが支配する隣国のコンゴでも、独立を求める活動が活発になっていました。そして、1959年1月に起きた暴動を収めるために、ベルギー政府はコンゴの独立を宣言しました。
これを受け、ルワンダでも独立に向けて進もうとしていました。
ベルギーの政治家たちは、ツチやフツの意見を取り入れ「王が君臨すれども統治せず」という立憲君主制の導入が、ルワンダを民主化する唯一の方法だと考えていました。
その理由は、ツチとフツ間の不平等は政治・社会制度を民主化すれば解決できると考えたのと、その当時の王であったルダヒグワ王を肯定的に語る人が多かったからです。
もし、立憲君主制が樹立されていれば、ルワンダ内部のエスニックな対立が暴力的なものへと発展しなかった可能性すらあったと言われています。
しかし、王の突然の死で、状況は一変します。
王の死因は不明だったのですが、自殺あるいはベルギーによる毒殺という噂が流れました。多くのルワンダ人は、王はベルギー人に毒殺されたという噂を信じました。
さらに、ツチの権力者たちが選んだ新たな王を、ベルギー政府は「穏やかな若者」であるという理由で受け入れませんでした。
これによって、ベルギーとツチの権力者の関係が悪化することになりました。
ツチの伝統的なリーダーたちは、1959年9月「ルワンダ国民連合:UNAR」を結成し、立憲君主制の支持とベルギーからの独立要求を表明しました。
このUNARの設立に対抗して、ツチの革新的リーダーたちは、同年9月14日「ルワンダ民主会議:RADER」を設立しました。目標として、社会・経済・政治・文化的な秩序を実現することを掲げていました。
これらのようにツチが政党を結成するなど政治改革への気運を高めると、フツのエリートも行動を起こします。
1959年10月9日、カイバンダは既存のMSMという党名をPARMEHUTUに変更し、ツチによるフツの植民地化を廃止することを強く主張します。このPARMEHUTUは、エスニックな問題について、いっそう積極的に発言するようになりました。
こうして、ますますルワンダ国内の緊張が高まっていきました。
3章のポイント
- 1950年代後半は、ツチの伝統的なリーダーとツチの革新的なリーダーの対立から始まり、フツのエリートが政党を結成し政治的・社会的不平等の是正を求めるようになった。
- 王の死と新たな王の即位から、ベルギーとツチの伝統的なリーダーとの関係が悪化した結果、さまざまな政党が設立され、政治改革への気運が急速に高まっていった。
次の第2部では、ツチとフツの間で起きた最初の暴力である万聖節の騒乱からルワンダの独立までを解説します。
最後まで読んできいただき、誠にありがとうございます!!
コメントを残す