生きる意味を知っているのに、生きる意味が分からない矛盾について

何が楽しくて生きているのだろうか。

 

以前にもそんな時はあった。

あの時は、単純に仕事が激務で何のために働いて、何のために生きているのか分からなくなっていた。

けれど、考えて考えて生きる意味を見つけたし、その上へアフリカで暮らすという貴重な経験もできた。そして、今に至る。

 

今、俯瞰して自分を見ると幸せである。

同僚もいい人たちばかりだし、仕事自体もやりがいがあるし、私生活も自由に好きなことが出来ているし、家族や友人たちも元気に暮らしている。

不幸なんて何ひとつない。こんなにも恵まれいる。

 

けれど、何が楽しくて生きているのか、何がために生きているのか、本気で分からなくなっている。

平穏と幸せを手にした時、ほんとうの生きる意味を問われるのか。客観的には幸せであるが、主観で物を言わせてもらえば、幸せだとは心から言えない。

 

荒凉としている。

 

人間はこんな精神状態の時に、酒やギャンブルに溺れていくのだろう。

幸いにも読書する習慣があるぼくにおいて、ビジネス書から文学とさまざまな書物を読むが、酒やギャンブルが幸せを連れてきた事例は未だ目にしていない。

 

だから、そこに答えがないことを知っている。それに、酒に弱くすぐに吐くため、酒に溺れることはない。またギャンブルにおいても最も身近なパチンコも、つまらないことを知っている。

というのも、大学時代に自動車の教習所で出会った先輩連れて行ってもらったことがあるが、何も面白くなかった。

 

試しても見ないのに酒もギャンブルもやらないというのは、世界へ扉を閉ざすことだからしたくない。試した上で言っているからこそ、なお、そこへ行かないと誓える。

 

こんな文字を羅列したところで、自分は救われるわけではない。

それは知っている、けど、吐き出さずにはいられない。

 

かつて、目指した幸せの状態に到達したのに、幸せでない。

何なら、死にたくなるほどに苦しかった社会人1年目の時と同じくらいに、何が楽しくて生きているのか分からなくなっている。苦しくなっている。

 

この問題の難しさは、すでに自分は生きる意味は見つけていることにある。

心の底から、自分の人生はこのためにあると言える価値観がある。これは何度も考え直しても揺るがないし、洗練されている。

 

がゆえに、生きる意味は分かっているけど、何のために生きているか分からないという大きな矛盾を生んでいる。

もう少し詳しく言葉にすれば、何のために生きているかは分かっているけど、何が楽しくて何が面白くて生きているか分からない、果たしてそんな生に意味があるのか分からないという矛盾。

 

これを解決するのは何なんだ。

人生理念を体現していると実感できる結果なのか。

 

結局、他人や周りからの評価や承認を欲しているのか。

弱い人間だ。そうじゃない。そうだとしてもそうありたくない。

 

己の目標に向かって、本気で行動している時はワクワクに満ちているはずである。それが出来ていないだけではないか。

だからこそ、改めて目標に向かってコミットする。コミットすること自体は苦しい、でも、その先に本当の充実や幸せがあるのだと思う。

 

だから、やるのだ。

というのが今の結論だろうか。

 

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