レモングラス売りの少女

 

レモングラス売りの少女が、ぼくの「生」を大きく揺さぶってくる。

 

彼女たちを目にすると、自分なんて木の蜜にたかる虫ケラでしかないと思う。

お前はこの世界で本当に生きていると言えるのか、という問いを喉元に突きつけられるのだ。

 

果たして、いつまで蜜を吸い続けるのだろうか。

二十歳の大学の頃も大概であったが、三十路になろうとしている今ですら何の価値も世界に生み出せていない。

 

彼女たちのこの世に生を受け、十年も経たないうちに価値を生み出している。誰かの喜びをつくりだしている。

 

日曜の朝、容赦なく降り注ぐ太陽の下を歩いて、一軒一軒営業をかけてレモングラスを売る少女。

その少女を涼しげにレストランから眺めている、何もせずとも豊かな暮らしが約束された日本人。

あまりに不平等だ。その恩恵を甘んじて享受している自分に腹が立つ。

 

日曜の朝から働く少女が、不幸だと言いたいわけではない。

 

でも、日曜の朝は仮面ライダーを見たいし、友達と遊戯カードをしたい。

彼女らは知らないだけで、遊びたい気持ちはあるはずだ。

 

頭の上にレモングラスを載せてねり歩かないで、友達とジャカランダの木の下でお弁当を食べたりして欲しい。公園で缶蹴りをする世界線で生きて欲しい。

これは価値観の押し付けだろうか。

 

子どもには明日食う不安ではなく、明日夢見る希望を抱えて生きて欲しい。

というより、生きていくのに不安や希望が必要な大人と違い、無我夢中に生きるのが子どもの本分ではないのだろうか。

 

ここにはヤギ飼いの少年だって、水汲みの少女だっている。

文句ひとつ言わず笑顔で働く彼ら彼女らを見ていると、自分が途端に情けなくなってくる。

 

だって、自分がしたことなんて何一つないのだから。

 

ただ日本という国で生まれただけである。

豊かさを享受できるのも、先輩たちがより良い未来のためにと汗を流したおこぼれを預かっているにすぎない。

 

いつまで消費だけする人間でいるのだろう。

いつになったら価値も創る人間になるのだろう。

 

そんな怠惰な自分に鞭を打ち、言葉をつづる。

今は無理でも、いつかそれが誰かにの喜びになるようにと願い、駄文を書き下ろす自分に存在価値を与えてやる。

その一方、これが今の自分にできることだとして、現実から逃げようとする自分に嫌気が差す。

 

右へ左へとぐらんぐらんに揺らされながらも、なんとか立っている。

 

いつか目を見て、ヤギ飼いの少年と挨拶を交わせるように。

いつか胸を張って、水汲みの少女と会話ができるように。

 

レモングラス売りの少女が、生きることを根底から揺らいでくる。

 

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