ムラホ!!おおいしです!
1994年にルワンダで起きた、ジェノサイドについて解説していきまます!
この第4部では、ジェノサイドが発生してからその後のルワンダまでを見ていきます。
これが最後のパートになります!
ルワンダジェノサイド 【第4部】
10章 ジェノサイド
1994年4月6日、ジェノサイドはハビャリマナ大統領の死が引き金となって開始されました。
キガリ空港の近くで、ハビャリマナ大統領の乗る大統領機がミサイルによって撃墜され、搭乗客全員が死亡しました。
誰が撃墜したかには諸説ありますが、有力なのが、フツ急進派説とRPF(ルワンダ愛国戦線)説です。
前者は、協定がRPFに有利なものであり、自分たちの権力が失われかねないという危機感から、RPFに譲歩している大統領に不満を募らせて暗殺したというものです。
後者は、RPFがパワーシェアリングではなく、軍事的な勝利を望んでいたため、内戦の再開を試みたという説明です
いずれにせよ、大統領死亡によってフツ急進派は穏健派排除に乗り出し、権力を掌握します。
4月6日の夜の9時すぎには、民兵らがキガリの道路を封鎖し、人の移動を制限しました。また、フツ急進派はフツ穏健派政治家の暗殺などを指示します。
7日の午前6時半にラジオルワンダが大統領の死を発表した後から、ツチに対する暴力は始まり、9日までに大統領警護隊や民兵(インテラハムウェ)らを中心として、ツチ市民に対する殺戮が組織的に行われました。
キガリから数十キロのニャマタでも4月11日から5月中旬まで殺戮が続きました。当時のニャマタの人口は11万9000人でしたが、6週間後には5万500人と半数以下に激減しました。ツチの6人に5人(5万9000人のうち、5万人)が殺されたといわれています。
また、南部のムランビには、周辺地域から逃れてきたツチが、建設途中の学校に逃れてきました。しかし、周囲から徐々に襲撃され、21日にはルワンダ国軍によって大規模な攻撃をかけられ、約5万人が殺害されてしまったのです。
大統領の暗殺と急進派の権力掌握、ジェノサイドの開始を受けて、RPFは4月8日から9日にかけて攻撃を再開します。
11日からキガリ市内での戦闘が始まり、東北部から北部と東部に進軍していきます。キガリ市内での戦闘が激化したため、12日、強硬派からなる新政府は中部ギタマラに逃げていきました。
ジェノサイドが始まったとき、国際社会は以下の対応をとりました。
9日、自国民はじめ外国人を保護するために、フランス軍がルワンダに到着します。10日にはベルギー軍も到着し、外国人をルワンダから避難させました。
国連では、迅速な増強や大量の物資補給を働きかけていましたが、アメリカやイギリスの反対を受け増強が期待できない中、ベルギー部隊は18日までの撤退を決定しました。
そして、国境なき医師団と国際赤十字という大きな国際NGOもルワンダ撤退を決定します。
このように国際社会は、ルワンダでの殺戮を止める努力をせず、放置したのです。
そのため暴力はさらに拡大していきました。この間もRPFの進軍は止まりませんでした。
RPFは4月22日にタンザニアとの国境にたどり着いたのち南進し、キガリを孤立させるために、5月16日にキガリとギタラマをつなぐ道路を分断しました。
5月21日には、国軍がキガリ空港と軍基地キャンプであるカノンべを放棄し、RPFが制圧します。また、6月13日には新政府が拠点としていたギタラマがRPFによって制圧され、新政府はキブイエ、次いでギセニィに逃走していきます。
RPFの勢いは止まらず、7月4日にキガリを制圧し、キガリでの戦闘と殺戮は終了しました。RPFは12日に「正式な政府組織のためのRPF宣言」を発表し、18日、RPFは完全勝利を宣言します。
19日に新政府が組閣され、RPFのフツであり和平交渉に参加していたビジムングが新大統領に、副大統領には国防大臣と兼任でカガメが就任しました。
これによって、内戦とジェノサイドという危機の時代はひとまず幕をおろしたのでした。
10章のポイント
- 1990年代前半のルワンダが置かれた政治状況の中で、植民地時代から独立後にかけて政治化されてきたエスニシティが、エリートレベルではさらに先鋭化され、またローカルな文脈では大衆動員の正当化に使われたと言えよう。
- 内戦からジェノサイド終了までの人々の経験は多様であった。したがって、「ツチ」や「フツ」を均質的な集団とみなすことはできない。
11章 ジェノサイドの特徴
ルワンダのジェノサイドの特徴を見ていきます。
1994年時点でのルワンダの人口が、777万6000人で、ツチは人口の9〜12%と推計でき、当時のツチの人口は70〜93万人でした。
ジェノサイド後にルワンダにいた生存者が約13万人だったことから、約80万人が犠牲になったと見積もられています。
しかし、1994年時点での人口およびツチの割合に関する明確な統計がなく、犠牲者の数には50万〜100万人という幅があります。
いずれにしても、ルワンダにおけるジェノサイドの第一の特徴は、犠牲者の多さでした。
ツチのみが殺害されたのではなく、様々な理由でフツも殺害されています。
例えば、「ツチと間違われたフツ」「穏健派だったフツ」「ツチの殺害を拒んだフツ」も犠牲になっています。また、RPFによる死者は2万5000人から3万人だと見積もられています。
第二の特徴は、加害者の多さです。
殺害に参加したのは17万5000人から21万人くらいで、当時のフツの成人男性(18〜54歳)の14〜17%にあたります。
また、ルワンダのジェノサイドは「100日間」と言及されることが多いです。
これは大統領が撃墜された4月6日からRPFが勝利宣言をした7月18日前後までを指していますが、この100日間で毎日平均的に殺害が行われたわけではありません。
むしろ、殺戮は4月第2週から5月中旬に集中し、4月第2週から5月第3週までの6週間で犠牲者の約8割が殺害されたといわれています。
11章のポイント
- ルワンダで起きたジェノサイドの特徴は、犠牲者の多さと加害者の多さであった。
- ジェノサイドを単純化せず、個々人の体験を重視しながら、複雑だった状況をできるだけそのまま理解することが重要である。
12章 ジェノサイド後のルワンダ
1994年7月、ルワンダ愛国戦線(RPF)が首都キガリを静圧し、4年間続いた内戦は終結しました。
ジェノサイドと内戦が終わったとき、人口の1割が死亡し3割が難民となっていたと言われています。
また、女性が世帯主の世帯が全体の3分の1以上に上り、約1割の子供が親を片方または両方なくしていました。親がジェノサイド中に殺害されたり、逆に刑務所に入っていたりするなどの理由で子供が世帯主となっている世帯も約11万ありました。
町には7000人ものストリートチルドレンがおり、HIV/AIDSに感染している子供も2万人近くいたと言われています。さらに、人口の約95%が暴力を目撃したもしくはそこに参加したということで、トラウマやPTSDなどを抱えていました。
人の移動
ジェノサイド後のルワンダでは、大規模な人の移動が見られました。
それは「旧難民」と「新難民」の帰還でした。
(※「旧難民」=ジェノサイド以前、特に独立の前後にルワンダから周辺国に逃れたツチ及びその子孫を指す)
(※「新難民」=RPFの侵攻・内戦勝利によってコンゴ東部に逃れたフツを指す)
「旧難民」は94〜99年で、110万人が帰還し、「新難民」は94〜99年で、177万人が帰還しています。
この帰還者に対して、土地や家屋を提供するための政策が採られます。
しかし、「旧難民」と「新難民」の帰還によって、様々な経験を持つ人々が同居する空間になりました。
・100万人以上の「旧難民」
・ルワンダに残り続けてジェノサイドを生き残った「生存者」20万人
・内戦開始後にRPFの暴力の犠牲になった人々
・ジェノサイドに参加し罪に問われた「ジェノサイド加害者」
・200万人以上の「新難民」
・数百万人の国内避難民
・RPF、旧国軍に所属し紛争を戦った元兵士
年齢や居住地域、エスニシティ、ジェンダーなどで、経験した暴力の性質が大きく異なっていました。つまり、人によって「戦争」や「ジェノサイド」が意味するもの大きく異なっていたです。
この多様な経験をもつ人々を「国民」として統合し生活を復興させ、平和を築いていくところにルワンダジェノサイド後の難しさがありました。
経済
1994年以降のルワンダは目覚ましい経済成長を達成してきました。
GDP成長率は1997年から2006年で年平均7.4%、2008年には11.2%を記録しました。
また、貧困人口の割合は2001年の60.3%から、2006年の56.9%に減らします。貧困ライン以下の人口も2010年の44.9%から2016年には39.1%に減少させています。
このような経済成長の要因として、ルワンダ政府が2000年に掲げた「ビジョン2020」という政策が挙げられます。
ルワンダの経済の状態を国連開発計画の定める「低人間開発」から「中人間開発」に移行させることを目標としました。
政策を進める中で、2016年の世界での汚職レベルは50位となり、サブサハラアフリカでは3位でした。
また、「アフリカのシンガポール」を目指し、IT化も推進しており、首都のキガリは他のアフリカ諸国と比べると近代的で清潔で安全だと言われています。
これらを評価され、ビジネスのしやすさを示す世界銀行の指数でも、ランキングが上がっています。
このような経済成長を可能にしたカガメ大統領のリーダーシップは、アフリカのモデルとして称賛されています。
反対にこのRPFの「近代化」政策には問題も指摘されています。その一つは様々な改革がトップダウンで行われてきており、階層的で垂直的な国家であるということです。
ルワンダの数字上の経済成長は著しく、キガリも日々発展しており、エリートや外国資本などにとってビジネスを行いやすい環境であることは間違いないです。
しかし、国民の大多数である農民にとって、農村での経済成長はなかなか実感できるものではなく、むしろ格差が拡大するなどの困難を感じてしまっているという現状もあります。
政治
選挙は定期に行われ、法や制度が整備せれ「ガバナンス」が機能していると捉えらる一方で、実質的な独裁体制や言論の自由の制限がされているとも言われています。
例えば、外見的には「挙国一致」「複数政党」「ツチだけではない」という印象を与えていますが、実際にはフツが大臣の場合、ツチのRPFメンバーが次席につき、権限を持っていました。
大統領も同様で、ビジムングではなくカガメが実権を握っていたため、パワーシェアリングは表面的なものだったと指摘されています。
2003年の共和国憲法の制定では、RPFの統治を継続するための仕組みが組み込まれたり、「エスニックな、地域的な、人種的な差別やあらゆる種類の分断を流布することは、法律による処罰の対象になる」とも定められました。
これによって、公の場でエスニシティな言及することやジェノサイドを否定するような発言をすることなどが禁止されるようになっています。
さらに、選挙のやり方もRPFに有利なものとなっており、2003年の2010年の大統領選挙でも有力な対抗馬は選挙に出馬できませんでした。
ルワンダの憲法では三選が禁止されていましたが、2015年に憲法が改正され、2017年の大統領選挙でもカガメが、98.7%と大勝し、2034年まで大統領でいられることになったのです。
国際社会
ジェノサイド後のルワンダは、フランス語圏の国々、特にフランスとベルギーとの関係が悪化していきます。
RPF政権は、ベルギーはルワンダ人を分断し、ジェノサイド中も見捨てたにもかかわらず反省していなと批判します。
また、フランスはジェノサイドの契機となったハビャリマナ大統領機撃墜は、RPFおよびカガメ大統領の指示であるとし、これを受けたルワンダ政府は国交を断絶しました。
反対に、イギリスはルワンダの開発計画「ビジョン2020」を支援することで合意します。イギリスがルワンダにとって最大のドナーとなったのです。
このようにルワンダの外交関係は明確に英語圏へとシフトしてきました。
おわりに
ルワンダのジェノサイドはツチとフツの対立は、極端な語られ方をされることが多かったのです。
ヨーロッパの植民地支配がエスニシティを「創造」し、平和に暮らしていたルワンダ人を「分断」したと説明されます。
一方では、対立の原因はツチとフツが数百年にわたって抱いていた「部族憎悪」だったという解釈もあります。
しかし、ここまで見てきたようにルワンダにおけるエスニシティは、植民地以前から存在していたものの、植民地化によって硬直的かつ差別的なものへと変質してしまったのです。
植民地化以前と植民地支配の特定の文脈の中で、ヨーロッパ人とルワンダ人の相互関係によって構築されたという解釈に落ち着いたのです。
かなり長くなってしまいましたが、ルワンダのジェノサイドの解説はこの第4部で終わりになります!
最後まで読んできいただき、誠にありがとうございました!!
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