ムラホ!!おおいしです!
1994年にルワンダで起きた、ジェノサイドについて解説していきまます!
この第2部では、ツチとフツの間で起こった最初の暴力である万聖節の騒乱からルワンダの独立までを見ていきます。
ルワンダジェノサイド 【第2部】
4章 万聖節の騒乱 〜共同戦線の結成〜
第1部の3章で見てきたように1959年9月から10月に、さまざまな政党が誕生し緊張の高まっていました。
そんな中、同年11月1日(キリスト教の祝日である万聖節の日)にツチとフツの間で起きた最初の暴力が発生します。
この暴力は、UNAR(ツチの伝統的なリーダーの政党)の支持者が、PARMEHUTU(フツの政党)のサブ・チーフを攻撃したことで始まりました。そして、フツの大衆がツチのリーダーに報復するというものでした。
攻撃の背景は、このサブチーフが全国でも一握りのフツのサブチーフだったことでした。加えて、このサブチーフがいた地域ではツチの政治活動が活発に行われ、支持者は興奮状態だったことも要因の一つです。
ルワンダの中央部では、暴力行為はツチからもフツからも双方向に行われました。
しかし、北部や北西部、西部では、PARMEHUTUを支持するフツが多かったため、ほとんどがフツからツチに対する暴力でした。この影響で、地方ではツチからフツへの権力交代が起こることになりました。
最終的に、ベルギー領コンゴ軍によって混乱は2週間のうちに収められます。
この万聖節の騒乱によって、900名以上のツチと300名以上のフツが逮捕され、200名以上が死亡し、7000人以上が難民となって周辺国へ逃れていきました。
このタイミングでベルギー政府は、政治改革を発表します。
その内容は、地方選挙を導入と、立憲君主制を樹立し自治への準備を進めるというものでした。
ベルギーは、このように政治制度の民主化を進めることで、ツチの革新的リーダーとフツのエリートが不満を抱いてた不平等の問題を解決し、同時に行政構造の「アフリカ化」を進めることでツチの伝統的なリーダーたちをも満足させようとしました。
この発表に対して、ツチの革新的リーダーたちの「ルワンダ民主会議:RADER」、フツの政党である「大衆社会上昇協会:APROSOMA」「フツ解放運動党:PARMEHUTU」らは、「民主化」を告げたベルギーの態度を歓迎しました。
対して、UNARのツチの伝統的リーダーたちは政治改革は時間稼ぎであり、可能な限り早い「独立」に向けてスケジュールを設定すべきだと主張していました。
このベルギーの政治改革について、各党代表2名ずつによる1ヶ月半におよぶ議論が行われました。
1960年6月に行われる地方選挙に時期についてや万聖節の騒乱に関与した逮捕者の恩赦を巡って、UNARと他の三党の間で合意できない問題も存在していましたが、結果的に、内閣を設立することで合意されます。
ところが、この立憲君主制と内閣制を採用するという提案をキゲリ・ンダヒンドゥルワ王は拒否しました。
これにツチの革新的リーダーとフツのエリートはおおいに失望しました。
その結果、ツチの革新的リーダーたちの「ルワンダ民主会議:RADER」、フツの政党である「大衆社会上昇協会:APROSOMA」「フツ解放運動党:PARMEHUTU」らは、「共同戦線」を組むことを発表しました。
これに対抗して、UNAR(ツチの伝統的なリーダーたち)は王政を支持する小規模な地域政党と同盟を組むことになります。
4章のポイント
- 万聖節の騒乱の結果、地方ではツチからフツへの権力交代が始まった。
- フツの政治家たちの要求は、改革を通じたフツ大衆の地位向上であり、王政打破という意味での革命を望んでいたわけではなかった。
- この当時対立していたのは、ツチとフツという集団そのものではなく、ツチの伝統的なリーダーとその他であった。(UNARと反UNAR共同戦線)
5章 革命の完成 〜政治化されたエスニシティ〜
1960年1月になると、ブリュッセルでの円卓会議においてコンゴの独立が突如決定されます。
もともとベルギーにとってルワンダは、望んで獲得した領土ではなく、コンゴの植民地行政と統合されているからこそ運営が可能でした。そのためコンゴの独立によって、ルワンダはベルギーにとって早急に解決すべき経済的負担となってしまいました。
その中、1960年3月に国連がルワンダの状況を調査し「国民和解」が必要という理由で、1960年6月に予定されていた地方選挙を延期するように勧告しました。
しかし、早急にルワンダを手放したいベルギーは国連との関係を重視するよりも、独立への時間を割かないようなやり方で、ルワンダを独立させようと決定しました。
1960年6月には当初の予定通り、地方選挙が行われました。
選挙の延期を求めていたUNAR(ツチの伝統的リーダーたち)は選挙をボイコットすることを呼びかけました。選挙の結果は、投票率は78.2%となりましたが、「フツ解放運動党:PARMEHUTU」が7割の票を獲得して勝利しました。
選挙中に、「ツチ支配からの解放を祝うために」フツが襲ってくることを恐れた王は、亡命してい立憲君主制の実現が困難になるという事態も起こりました。
議会は「フツ解放運動党:PARMEHUTU」から31名、「ルワンダ民主会議:RADER」から9名、「大衆社会上昇協会:APROSOMA」から7名、その他1名の計48名で構成されました。UNARは選挙ボイコットしたため、暫定議会にも参加しませんでした。
「フツ解放運動党:PARMEHUTU」にとって最も重要だったことは、暫定政府内での優勢でした。
他方、他の三党は「フツ解放運動党:PARMEHUTU」の独裁を危惧し始めます。そこで「フツ解放運動党:PARMEHUTU」の支配を恐れたUNARと他の党は、反PARMEHUTU・反ベルギーを掲げるようになりました。こうして、RADER、APROSOMA、UNARは新たな共同戦線を張り、PARMEHUTUの独裁的な体制に対抗しようとしました。
中でも、RADERは、PARMEHUTUが主張する反ツチ的な態度に懸念を強めていき、UNAR(ツチの伝統的なリーダー)とRADER(ツチの革新的なリーダー)の政治的立場は接近し、主張も似通い始めるようになります。
そして、UNARとRADERは1960年の地方選挙が不当なものであり、再度行い、その後に国政選挙は行うべきだと主張しました。
一方で、PARMEHUTUは国政選挙を延期するのは不可能であり、予定どおり1961年1月15日に行うべきだと主張します。
これらを受けベルギーとしては、地方選挙はUNARらが主張するように不当なものでなく、暫定政府および暫定議会に問題はなかったとしていました。もし、選挙が延期されれば治安の悪化が懸念されるし、1962年にルワンダが独立するのであれば、できるだけ早期に自治政府を設立する必要があり、ベルギーは選挙の延期には否定的でした。
しかし、国連ではルワンダの国政選挙を3月まで延期することが決められました。
この決議を受けて、ベルギー政府は国政選挙の実施時期を巡って分裂していました。ルワンダ現地行政は選挙を予定どおり1月に実施するとしていました。しかし、ベルギー国内の官僚らは国際的な立場を重要視しており、最終的に国政選挙を延期することに決めました。
ベルギー政府の選挙延期に怒りを感じたフツの政治家たちは直接行動にでます。
このクーデターによって、ルワンダ共和国が誕生しました。大統領を選出し、内閣が誕生しました。同時に44名の政治家が国会議員として選出されましたが、ツチ政治家は含まれていませんでした。
これに対して、2月1日にベルギー政府は、クーデターによって成立した新政府を認め、国内自治権を付与しました。国連からベルギーに対する非難は増すことになりました。
こうしてフツの政党が権力を掌握するに至ったのです。
1960年夏から61年2月にかけてルワンダ国内で革命が進むに連れて、暴力が激化し、対象も拡大し、全国的に頻発していきました。このことによって多くの難民も発生することになりました。
さらには、PARMEHUTUが民族二分法的なイデオロギーを採用し始め、また彼らが選挙で勝利したことで、ツチとフツの間の対立が深刻になっていくのでした。
5章のポイント
- 1960年から1961年はルワンダの政党政治そしてエスニシティにとって重要な時期であった。地方選挙後は、PARMEHUTUと反PARMEHUTUの共同戦線の対立に構図が変わった。
- 最終的には、クーデターによって、フツの政党が権力を掌握するに至った。それは、ベルギーと国連の関係に影響をされたものであった。
- 革命の中で、各地で暴力が発生し、難民が発生し、ツチ全体が暴力の対象となっていってしまった。つまり、政治化されたエスニシティにしてしまったのである。
6章 独立 〜問題を抱えたまま共和制へ〜
1961年9月に、1月から延期されていた国政選挙が行われます。
結果は、PARMEHUTU(フツの政党)の大勝で、議席の80%を獲得します。正式に共和国の大統領としてカイバンダが正式に選出されました。
同時に行われた王政に関する住民投票では、王政の廃止が正式に決定されました。
国連は、PARMEHUTUがルワンダ政府の権力を独占することを懸念していました。
そこで、ルワンダ政府とUNAR(ツチの伝統的なリーダーたちの政党)の間に和解に関する会合を設け、UNARに2つの閣僚ポストを提供するとともに難民に帰還を奨励することで合意されました。
そして、1962年6月の国連決議で、ルワンダの独立が承認されます。
国政選挙、住民投票および1962年7月の独立によって、ツチによる支配に幕を下ろすことになりました。
この状況に満足したフツ大衆は国内に残るツチに対する暴力行為をやめます。
また国内のツチも体制変更を受け入れ、国内に留まっているUNARのリーダーたちも国連から奨励された「和解」のために妥協しようとしていました。
しかし、近隣諸国にいるツチの難民たちは、イニェンジ(ゴキブリ)と自称して武装し国境を超えて攻撃を行いました。イニェンジの攻撃は頻発し、その報復としてルワンダ国内で数百人のツチが殺害されることとなりました。
したがって、1962年以降(独立以降)の暴力は、発生理由がこれまでとは異なるようになりました。ルワンダ国外からのツチ武装難民による攻撃とそれに対する報復に変わったのです。
このようにルワンダはツチとフツの問題が解消されないまま独立を達成したため、その前途は不安定なものでした。
6章のポイント
- 1961年の国政選挙、王政に関する住民投票および1962年の独立などが、すべてPARMEHUTU支配を正当化することとなった。
- 選挙制民主主義を導入することによって、皮肉にも非民主的な状況と暴力がルワンダに生まれてしまった。
- 国内の暴力は和らいだが、武装難民による外部からの攻撃によって、国内で報復の暴力が再び起きることになった。
次の第3部では、不安定なまま始まった共和制のルワンダからジェノサイドが起こる直前までを解説していきます。
最後まで読んできいただき、誠にありがとうございます!!
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