人間は、なんでもかんでも意味を求める。
雨上がりにかかった虹にも意味を求めるし、フライドポテトの脇に乗ったパセリにも意味を求める。
ぼくたちは湯呑みに立った茶柱や目の前を横切る黒猫にだって、意味を与えた。
そんな物事に意味はないのだけれど、意味を与える。
でないと、立っていられないのだ。
そもそも人間が生きること自体に意味なんてない。
であれば、生きていくことは苦行でしかない。
だからこそ、人生に意味を与える。
行動ひとつ起こすのにも、意味を求める。
動きたくない自分を動かすには、それなりの意味が必要なのだ。
殊に、気の進まないことなら、それなりの大義名分が必要になってくる。
それはルワンダでのこと。
毎週、ルワンダ人の大工の団体に訪問する。何回訪れようと、屈強なルワンダの職人たちが、50人近く働く中に飛び込むのは勇気がいる。
いつも落ち着かず、終始どきまぎしている。
ところが、訪問するのに明確な意味があると、様相はまるで変わる。
我が物顔でルワンダ人軍団を掻き分けて歩けるようになる。今日は団体の代表に会いにきたという大義名分があるだけで、心持ちがまったく変わるのだ。
たとえば、ドンキホーテのアダルトなゾーンに入りたいけど、恥ずかしくて入れない。
けれど、友達のプレゼントを買いに来たという大義名分を手にすると、入れるようになる。
他にも宗教戦争。
異教徒を殺すことが善とされ、むしろ彼らのためにも殺してあげる方が良い、という大義名分があった。
この大義名分が、人を命を奪うことを可能にした。
この大義名分、意味、理由、目的といったものは、人間に大きな力を与える。
それは、プラスの方向に働くこともあれば、マイナスの方向に働くこともあるのだ。
人間なんでもかんでも意味を求めるけど、意味を与えるならプラス方向に進める意味を心がけたい。
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