ぼくたちはどの瞬間に大人になるのだろうか。
ビールは喉で飲むのだと大学の後輩に語り始めた時だろうか。
それとも、本音を語れなくなった時だろうか。
幼いころは世間の目なんか気にせず、本音で生きていた。
しかし、どこからか社会を意識した仮初の自分で生きるようになる。
押し入れからホコリを被った卒業文集を引っ張り出すと、自分がいつ仮面をつけ保身に走りはじめたか、が判明する。
幼稚園の卒業文集に書いた夢は、今でも強烈に覚えている。
幼稚園の頃の夢は、「ゆなちゃんとけっこん」することだった。
隣のさくら組のゆなちゃんが好きだった。
当時、好きな人を尋ねられた際の答えは、お母さんかお父さんが模範回答だった。
ところが、ぼくだけは声を大にして、ゆなちゃんと言っていた。
ただ、幼稚園児だろうと現実は残酷だった。
ゆなちゃんの好きな人は、ぼくがいつも一緒に遊んでいた、しょうくんだった。しかも、両想いだった。
それでも、ゆなちゃんが好きだと言い続けた。
叶わない夢を語って笑われることを恐れなかった。正面からぶつかって負けることを恐れなかった。傷つくことを恐れなかった。
なんならバレンタインの日、しょうくんがゆなちゃんからチョコレートをもらうのを横で見ていた。
こんな現実を直視していながら、変わらない大きさで、ゆなちゃんが好きだと幼稚園の頃のぼくは叫びつづけていた。
世紀のストーカーのプレヒストリーにも取れるし、大起業家の原点とも取れる。
悲しいかな、三十路になる今、どちらになっていない。犯罪者にならなかっただろう。
小学生の頃の卒業文集には、サッカーの日本代表になると書いた。この頃はまだ夢があった。
ところが、たった15年しかこの世界を生きていないのに、早くも夢を見なくなる。
中学の卒業文集には、サッカー関係の仕事をすると書いた。
夢のサイズが小さくなったという話ではない。
嘘をついている。
これは本音じゃない。ほんとうはサッカー選手になって日の丸を背負いたかった。
にもかかわらず、周りに自分より上手な子がいっぱいいるから無理だとか、そんな自分がサッカー選手なんて書いたら笑われるとか、そんな理由で本心を隠した。
なんならもう現実を見てるオレって、イケてるだとすら思っていた。
幼稚園の頃は、目の前で無慈悲な現実を叩きつけられても決して諦めなかった。恥ずかしいから笑われるからという理由で、本心を隠したりしなかった。
たとえ叶わなくても、偽りのない気持ちでぶつかり続けたあの頃は爽やかだった。
高校に至っては、卒業文集を書いていないと思う。
そのことを不思議にも思わないくらい、夢なんて子供らしい。夢を語るなんてダサい、アホらしいと思っていた。
今改めて考えてみると、高校生に卒業文集を書かせないという選択を取る大人に憤りを覚える。
夢なんか見ていないで、良い大学にさえ行けば幸せになれるからという意思表示だろうか。
むしろ、「お前ら夢を持てよ、10代のうちからつまらない生き方をするなよ。世界はもっと広いし人生はもっと面白いんだよ、そんな小さな世界に縮こまるなよ。自分の可能性を未来をそんな小さく見積もるなよ」
と、唾を撒き散らし肩を揺すって鬱陶しいくらい熱く語ってほしい。それが先生であり、大人ではないのか。
そんな偉そうなことを語る自分は、社会に出た今どうだろう。
好きな子に好きと言えずにいる。
叶えたい夢を語れずきいる。
紫の帽子を被ったすみれ組のぼくにはできたのに。これが大人になるということなのだろうか。
金曜の夜にだけお祭り気分になることを大人というのだろうか。
通帳の数字が数えることに充足感を覚えることを大人になるというのだろうか。
それが大人というなら、大人になんかなりたくない。
子どものままでいいから、本音で生きたいし、夢を語っていたい。
と申し上げながら、恥ずかしくて本音で夢を語れない大人がここにいる。
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